第95話 ヒジャーズ駅にて
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1916年8月10日 オスマン帝国 シリア州 ダマスカス ヒジャーズ駅
「ダマスカスか、久しぶりだな」
オスマン帝国の改革派組織である統一と進歩委員会に属するムスタファ-ケマルは、その日ダマスカスにいた。
ケマルはかつてダマスカスにてアブデュルハミト2世の専制政治打倒を目指す『自由と祖国協会』を組織していたことがあった。結果的に『自由と祖国協会』は当時のオスマン政府によって壊滅させられ、ケマルもあわや銃殺刑という所まで行きかけたが、ケマルの才能に期待を寄せていた上官らが手を回し、政治的な運動に関わらない事を条件に軍に残る事ができた。
それからは、平凡な軍人生活を送っていたのだが、そんな生活が変化したのは2年前のことだった。
士官学校と陸軍大学校の同期であり、ケマルを差し置いて首席で合格した男、アリ-フアトが接触を図ってきたのだった。
フアトは自身が統一と進歩委員会の構成員であることをあかし、ケマルにも統一と進歩委員会に加わるように求めてきたのだった。
ケマルはしばらく考えたが、数日後にフアトに加入の意思を伝えた。アブデュルハミト2世による専制で祖国が腐敗していくことは耐えがたい事であり、例え失敗して自身が今度こそ銃殺刑になったとしても、悔いは無かった。
だが、そんな理想に燃えていたのもつかの間だった。ケマルは徐々に統一と進歩委員会に失望するようになっていった。切っ掛けはアブデュルハミト2世の暗殺事件だった。
この暗殺事件の裏ではケマルら統一と進歩委員会の中央集権派がメフメト-サバハッディンを中心とする統一と進歩委員会の分権派を粛清すべく陰謀を巡らせており、結果として分権派の粛清は成功したのだが、問題はその後だった。
アブデュルハミト2世の暗殺後に召集された国会においては、統一と進歩委員会は思うように議席を獲得する事が出来なかった。統一と進歩委員会の知名度が足りなかったことが原因の一つでもあるが、そのイデオロギーの主軸が不透明なことが一番の要因だった。
中央集権派が主流となったとはいえ、その中央集権的な国家をどのようなイデオロギーに基づいて動かしていくかという点については、全く定まっていなかった。
統一と進歩委員会では、オスマン帝国内のすべての人間の平等な権利を求めるオスマン主義者、イスラームを中心とした汎イスラーム主義者、トルコ人を中心したテュルク系諸民族の統一を求める汎テュルク主義者、そして西欧の力の根源である科学技術を学び、その吸収とさらなる進化を目的とする社会ダーウィニストたち。
これら全てが自らの唱える方法こそがオスマン帝国を救うと訴えて、喧々諤々の論争を日々交わしていた。
このような状態で一つの組織としての統一を保てという方が無理だろう。
さらに、統一と進歩委員会は本来オスマン帝国が西洋に追いつくための改革を目指していたのにも関わらず、国会論戦の中では政権批判と国民へのアピールののために、現在の政権がいかにイスラーム的に正しくないかを長々と演説するほどだった。
これは、従来よりオスマン帝国の西洋化を目指してきた知識人たちの失望を招いた。
こうした論争の中で、ケマルは統一と進歩委員会に背を向けるようになった。
なぜならば、ケマルはオスマン主義や汎テュルク主義とは違いより小さなトルコを求めていたし、必要ならばイスラームをも政治から遠ざける必要があるとも考えていた。
結局のところ、ケマルはどこかの派閥に所属するにはあまりにも異質過ぎる男だった。
現実にある思想と彼の思い描く理想の差があまりにも大きすぎたのだった。
結局、ケマルはより現実的な選択肢、つまり社会ダーウィニストの側につく事とした。
指導者のメフメト-ズィヤ、筆名ギョカルプはデュルケームの影響を受けた人間であり、そういう部分はかつて自身が殺害したプレンス-サバハッディンと変わらなかったが分権派の中心人物だったサバハッディンと違い、個人よりも集団の連帯を重んじるデュルケーム思想とニーチェの哲学の融合、汎テュルク主義に基づいた『文化的に異質な』他民族の排除などはケマルの理想にも沿うものがあった。
こうしてケマルはズィヤと共にオスマン帝国の社会をより"進化"させる為に動いていた。
ケマルがダマスカスにいるのはそうした同志たちを増やすための活動の一環だった。
ケマルは今やオスマン帝国を代表する社会ダーウィニストの一人だった。




