第90話 カイロの説得
1916年6月20日 エジプト副王領 カイロ アブディーン宮殿
「なるほど、ではお前たちは余の要求を全て飲むということか」
「はい、陛下。そのかわりカリフとサバーハ家、それにイェルサレムの件は…、」
「心配せずともよい。もとより、あのトルコ人たちにこれ以上任せるつもりはないからな。よりふさわしき者がいるのならば、その者に任せるのが筋というものだ…バスラとイェルサレムに関しては少々残念ではあるが仕方あるまい」
「ご英断に感謝いたします」
イギリス人の問いに宮殿の主は一見上機嫌そうだが、その態度の節々に不満をのぞかせながら応じた。
イギリス人、サー-アーサー-ヘンリー-マクマホン総領事は心からの感謝を込めて、礼を述べた。
宮殿の主、エジプト副王アッバース-ヒルミー2世は民族主義的で反英的な人物として知られていたが、マクマホン総領事はかつて、英領インド帝国と大清帝国との国境線画定交渉を行なったことでも知られる優秀な外交官であり、キッチナーの策定した計画に沿うようにアッバース-ヒルミー2世の説得を行ないこれを認めさせた。
キッチナーがイギリスの中東政策を進める上で、トルコ人ではなくアラブ人を主体とした、イギリスの利益にかなう形での新たな中東を治める政府の樹立ができるかどうか調査するように指示してきたのは就任直後の事だった。
マクマホンは部下であるフランシス-レジナルド-ウィンゲートを使って調査を行ない、メッカのシャリーフで預言者であるムハンマドの一門であるハーシム家の当主であるフサイン-イブン-アリーと接触した。
フサインは長らくアブデュルハミト2世の命によりオスマン帝国の首都イスタンブルに居住させられていて、アラブの叛乱勃発以降は、更に厳重な監視下に置かれていたが、イギリス情報部の手引きにより脱出させられ、イギリスの影響力が強いカイロに潜伏していた。
これと並行してマクマホンはアッバース-ヒルミー2世の説得に取り掛かっていた。アッバース-ヒルミー2世は前述のように民族主義的で反英的な人物だったが密かにある野望を抱いてた。
それは、自分がオスマン帝国に代わって中東全域を支配するという壮大な野望だった。
もちろん、実質的なイギリス植民地となっているエジプトにそこまでの国力は無いのだが、しかし、その野望はイギリスが今後の中東をコントロールする上では"使える"、とマクマホンは思ったのだった。
マクマホンはフサインをカリフとし、その下でアッバース-ヒルミー2世が治める。ただし、イェルサレムを含むキリスト教徒の多い地域に関してはキリスト教国家である列強諸国のうちのいずれか、または全ての国が参加する形でその統治を委任されることとするという提案をした。
初めは自らのカリフ就任を狙っていたアッバース-ヒルミー2世はこれを拒絶したが、統治に莫大なコストがかかる事はアッバース-ヒルミー2世も承知しており、自身の子孫への王位継承の保障と引き換えにこれらの条件を飲む事にした。
ところが交渉が順調に終わりかけていたその時になってイギリス本国から、マクマホンに新たな命令が下る。それは、クウェート首長であるムバーラク-ビン-サバーハ-アル-サバーハ及びその子孫に対して現在のオスマン帝国バスラ州の永代統治権を付与するようにアッバース-ヒルミー2世を説得せよ、というものだった。
これはアラブの叛乱計画において重要な役割を果たしたムバーラク-ビン-サバーハ-アル-サバーハに対するイギリスからの報奨という意味合いが強かったが、アッバース-ヒルミー2世の態度は硬化した。
というのもバスラ州はその名の通り良港であるバスラを擁しているだけでなく、バスラの近くには預言者ムハンマドの教友であり、その中でもムハンマドから直接、楽園に行く事を約束された10人のうちの一人であるズバイル-イブン-アル-アウワームの亡くなった地、ズバイルがあったからだ。
マクマホンは本国に対してムバーラク-ビン-サバーハ-アル-サバーハに対するバスラ州の永代統治権の付与を取りやめるように、説得を試みたが無駄だった。本国政府は頑としてこれを認めようとしなかったのだった。
結局、アッバース-ヒルミー2世が折れる形で、バスラ州はアッバース-ヒルミー2世の手を離れる事になった。
こうした紆余曲折はありながらも、キッチナーの中東政策は着実に進行していくのだった。




