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第82話 晴れ舞台と苦悩

スケジュールや資料の関係で執筆が大幅に遅れてしまい、誠に申し訳ありません。


第一次世界大戦におけるドイツ帝国軍のツェッペリン飛行船によるパリ空襲とルイ-ブレリオ、ユベール-ラタム両名によるツェッペリン迎撃戦はそれを知った世界中の人々に空からの攻撃という、新たな戦争の形態を印象付けた。

戦後しばらくは、第一次世界大戦の結果として生まれた平和主義者たちによって、飛行船、固定翼機を問わず、軍用航空機の開発と航空機の戦時利用の禁止などが提唱されたが、その提案を現実的に受け止めるものはいなかった。


多くの各国の政治家、軍人などが考えたのは、どうすれば敵機の攻撃から国家を守る事ができるかという点だった。こうして、第一次世界大戦後の世界各国においては航空機の開発が飛躍的に進む事になる。

その結果がバルカン戦争でのイタリア軍の戦略爆撃やフランス義勇軍が投入したアントン-フォッカーが開発した機銃同調装置付きの戦闘機だった。


第一次世界大戦に連合国側として参戦した極東の国家、大日本帝国においても航空機の研究に関しては大きな関心が高まっており、1909年には臨時軍用気球研究会の名で、陸海軍合同の航空機の開発、研究組織が誕生していた。

世界的に見てもそこまで遅いわけでもない研究開発の開始だったが、大日本帝国の基礎技術に低さや陸海軍共に他にも近代化を進めるべきところがあった事から、軍主導の航空育成は躓く事になった。

そこで、積極的に民間の航空技術者たちを援助する事で、航空機業界の育成と活性化がすすめられる事となり、多くの発明家や飛行士をはじめ、自動車などの他業種からも参入が相次いだ。


多くの小規模会社が乱立するこの状況に危機感を持った者もいたが、まずは航空産業の振興が優先と切り捨てられていた。当時の大日本帝国では航空産業自体がまだまだ未知の領域だったからである。


1916年3月20日 大日本帝国 千葉県 稲毛海岸 東京飛行製作所飛行場


そして、この日千葉県の稲毛海岸では、一機の飛行機の試験飛行が行われようとしており、周りにはそれを見守る男たちがいた。


「いよいよですな」

「ああ…横須賀から来た方にそのように期待されては少々むず痒い気もするがね」

「将来の帝国の国防の要は航空機にあり、そしてその開発を当初から進めてきた奈良原さんに敬意を払うのは当然の事です」

「中島機関大尉…君は随分変わった男のようだ」


期待を込めた面持ちで飛行機を見つめていた大日本帝国海軍機関大尉中島知久平に対し、東京飛行機製作所所長の奈良原三次は気恥ずかしそうに応じたが、中島は正直に自身の航空機への思いと奈良原への敬意を伝えた。


「アー、シツレイドウデスカ」

「ええ、調子もよさそうですし、良いですな」


不意に片言の日本語を話す人物が割り込んできた。今回の主任設計者であるガブリエル-ヴォワザンだった。

奈良原は当初は自分で機体の設計を行なっていたが、やがて急速に進化する列強諸国の飛行機の性能の前に自身の限界を感じるようになり、フランスからガブリエル-ヴォワザンを招聘して東京飛行機製作所の主任設計者としていた。

ヴォワザンによって東京飛行機製作所は一応ちゃんとした軍用機を制作できるようになり、奈良原の古巣である海軍からの受注によって、安定して飛行機が制作できるようになった。


(島津さんにも礼を言わなくてはな。無理を言って今回の飛行に合わせて発動機を作ってもらったのだから)


島津さん、とは主にエンジン開発や自動二輪車の開発を行なっている島津モーター研究所所長の島津楢蔵のことだった。

島津は航空機業界で大きなエンジンの需要が生まれると感じて、ベルギーからの航空機用エンジンの輸入を行なっていたが、やがて自社でもエンジン開発を行なうようになっていた。

その事を知った奈良原は島津に頼み込み無理を言って今回の機体に島津モーター研究所製のエンジンを使用していた。自身の機体を国産エンジンのテストベッドとし、今後のために問題点の洗い出しをするつもりだった。今回の飛行が少しでも日本の航空機業界の進歩の役に立てば…奈良原も島津もそう考えていた。


(だが、これでもまだ列強諸国に追いつくにはまだまだだろうな)


奈良原はかつての臨時軍用気球研究会時代の同僚で、現在はイタリア戦線で義勇兵として戦っている滋野清武からの報告を思い出して暗い気分になった。


(機銃同調装置付きの戦闘機、何発もの爆弾が運べる爆撃機…今の帝国では精々試作機程度が関の山だろうな。完全な量産化となれば無理だろう)


千葉の海岸で遥か欧州の航空機の事を思って、せっかくの晴れ舞台ともいえる試験飛行だというのに奈良原の気持ちは暗かった。


「まあ、目下の敵は欧州よりも"赤羽"だな」


そういうと奈良原は東京の方へと目を向けた。もちろん稲毛の海岸から"赤羽"が見えるはずも無かったが。


1916年3月20日 大日本帝国 東京府 赤羽飛行機製作所

奈良原達が飛行機を飛ばしている頃、"赤羽"こと赤羽飛行機製作所の主はその報を聞いて怒り狂っていた。


「まったく、こちらが上手くいかないのを知っての事か…腹立たしいにもほどがある」


赤羽飛行機製作所所長、岸一太。1875年に岡山県に生まれ、医学の道を進んでいたが、やがてレーヨンや自動車など様々な発明を行ないはじめ、やがて航空機制作も始めた。

岸が目指したのはエンジンと航空機の両方を自社で生産する事であったが、航空機はモーリスファルマンの模倣品であり、唯一のオリジナルであるエンジンにしても島津モーター研究所の開発したものに比べれば性能は劣っていた。

このままでは、陸軍からの契約は打ち切られる…そう思っていた最中での奈良原たちの飛行試験の報であり、腹立たしくないはずが無かった。


岸は前日に陸軍から契約の見直しを告げられたばかりであり、奈良原による飛行試験は自分への当てつけであると思っていた。

実際には飛行の日程が決まったのは海軍からの指示であり、奈良原はそれに従っていただけなのだが、とにかく岸はそう思っていた。


結局、この日、岸は一日中、苦悶する事となった。

赤羽飛行機製作所に希望の光が差すのはもうしばらく先の話になる。

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