第81話 満面の笑み
1916年3月4日 セルビア王国 クラグイェヴァツ
セルビア王国首相ニコラ-パシッチはドラグーティン-ディミトリエヴィッチ大佐から、セルビア国内の秘密結社"黒手組"に関する調査結果の報告を受けていた。
「それで調査の結果はどうなりましたかな」
「ええ、いくつかの事が分かりました」
「それは喜ばしい限りですな。それで"アピス"の正体はわかりましたか?」
「いえ、そこまでは…」
「そうですか…」
「ご安心ください首相。必ずや"アピス"の正体を掴んで御覧に入れます」
「ええ、お願いします。時に大佐」
「なんでしょうか、首相」
「セルビアの英雄たる貴方が黒手組の一員であるという"噂"を耳にしたのですが本当ですかな?」
それまで調査結果の事を気にして心配そうに、ドラグーティンに聞いていたパシッチが突然今までに見たことも無いような鋭い眼をして、しかし口調はそれまで通り柔らかに聞いてきた。
「首相、一体何を馬鹿な事を…私が黒手組の一員などと…」
「いやなに、噂はあくまでも噂ですが、一応聞いておこうと思いまして、何しろあなたに話した計画は今後のセルビアの未来を左右するものですから」
「ああ、そういうことでしたか。確かに閣下が神経質になられるのも無理は無いですな」
「ええ、"アピス"は用心深く慎重な男です。故に構成員が何人か減ったところで気にしないでしょう…例えばこのようにね」
扉が荒々しく開かれると、幾人かの兵士に引き摺られながら全身に明らかに拷問されたとわかる傷を負い血を流している男が運び込まれてきた。ドラグーディンは男がだれか知っていた。
「ヴォジスラフ-タンコシッチ…」
ヴォジスラフ-タンコシッチはドラグーティンと同じく、オブレノヴィッチ家打倒の際に活躍した青年将校の一人であり黒手組の構成員だった。
「首相…なぜ…」
「このような事をしたか、ですか?まあ、それについてはそのうち話しますよ。ですがまずはあなたに話してもらわなくてはなりませんな?何しろ聞きたい事は色々とあるのですよ"アピス"」
ドラグーティンは余りの衝撃にそれ以上話す事が出来なかった。そう、セルビアの英雄ドラグーティン-ディミトリエヴィッチこそがパシッチの探し求めていた"アピス"だったのだ。
「我々"白手組"としてはこれを機にあなた方の全てをあぶりだすつもりです。覚悟しておいてください」
パシッチはドラグーティンに対して囁くような小さな声で、しかし、確固たる意志を込めてドラグーティンに向かいそういった。
"白手組"とは1912年に結成された反"黒手組"の組織であり、"黒手組"に対抗する事を目的としていたが、初めから"黒手組"を危険視して参加したものは少なく、多くのものが"黒手組"内部での権力闘争などに敗れたものだったが、ニコラ-パシッチ首相の他に、皇太子のアレクサンダルなど、構成員の中にはセルビア国内に強い影響力を持つものもいた。
だが、そんな"白手組"であっても国内数多く潜む"黒手組"の関係者を一網打尽にする事は難しく、そのため指導者である"アピス"の捕縛または処刑に全力を注いだ。だが、それでも成果は上がらず、ついにパシッチはドラグーティンに接触して"アピス"の調査を依頼した。
ところがそれからしばらくして、ドラグーティンこそが"アピス"であるとの情報が飛び込んできた。最初は偽情報であると取り合わなかったが、すると今度はタンコシッチの正確な居場所を伝えて来た。
こうして、"白手組"はその情報に従ってタンコシッチを捕らえ拷問にかけた。確信を持った"白手組"はドラグーティンを呼び出して、見事捕縛する事に成功したのである。
パシッチは引きずられていくドラグーティンを見ながら満面の笑みで笑っていた。
1916年3月8日 モンテネグロ王国 ツェティニェ
モンテネグロ王国の首都ツェティニェにある屋敷では屋敷の主の前に数人の男たちが跪いていた。
「そうか、"アピス"とは連絡が取れなくなったか…」
「はい、各地の支部も憲兵隊の強襲を受けて…つきましてはこのモンテネグロにて…」
「匿ってほしいという事だな。わかっているとも」
「ありがとうございます。殿下。セルビアのために今後も力をお貸しいただきたい」
「ああ、お前たちもパシッチにつかまらんようにな。死んでしまっては元も子もないからな」
「はっ」
そういって、男たちは出ていった。男たちに殿下と呼ばれた男は誰もいなくなった部屋で、皮肉な笑みを浮かべたあとやがて、誰もいない部屋で一人大笑いを始めた。
「殿下か…果たしてどちらの意味で言ったのだろうな」
殿下と呼ばれていた男はモンテネグロ王ニコラ1世の次男ミルコ-ペトロヴィッチだった。
そのため、ミルコは当然殿下呼ばれてもおかしくは無い身分なのだが、彼にはもう一つ複雑な事情があった。それは彼がかつてセルビアの正統王位継承者…だったものという複雑な事情が。
かつて、セルビア王国を統治していたオブレノヴィッチ家の国王アレクサンダル1世は、セルビア王の縁戚であるナタリヤ-コンスタンティノヴィチと婚姻する際に自身に子が生まれなければセルビア王位はミルコに譲るという協定を結び、ミルコはセルビア王国の王位継承者になった。
しかし、この協定はドラグーティン-ディミトリエヴィッチ大佐らのクーデターによってオブレノヴィッチ王朝そのものが打倒されてしまった為、水泡に帰した。
そこで、ミルコはセルビア国内で強い影響力を持つ"黒手組"に接近し、その力を使ってセルビア王位を得ようとしていた。
そんなミルコの元にドラグーティンが"アピス"探しを始めたという冗談のような情報が入ってきた。もしかすれば、ドラグーティンは自分を"アピス"として差し出すつもりなのかもしれない。疑心暗鬼になったミルコは自らの事を伏せつつ"白手組"に少しずつ情報を流していった。
そして、"アピス"ことドラグーティンは無事捕縛された。最早セルビア国内で"黒手組"は大手を振って活動する事は出来ないだろう、生き残るためにはモンテネグロの、つまり、私の庇護下に入らざるを得ないのだ。
「何とも皮肉なものだ。再びセルビア王位を得ようとして"黒手組"の手足となって働いていた私が、セルビア王位を得る為に"黒手組"を自らの手足として自由に使える立場になるとはな」
そういって、ミルコは再び笑い始めた。その笑顔は満面の笑みだった。




