第78話 見つけた答え
1916年2月8日 ガージャール朝ペルシア テヘラン ゴレスターン宮殿
ガージャール朝ペルシアの首都テヘランでは今後について国王モハンマド-アリー-シャーは考え続けていた。
モハンマド-アリー-シャーは従来の絶対君主制に代えて立憲君主制を求める立憲派に対しては否定的な人物だった。もしも、東洋の立憲国家、例えば大日本帝国がペルシアにとっての仇敵であるロシア帝国を打ち破る等とといった衝撃的な出来事が起こっていればモハンマド-アリー-シャーは立憲派によって追放され亡命を余儀なくされていたかもしれないが現実にはそのような事は無く、保守派の中でも強硬な姿勢で立憲派に対して激しい弾圧を加えていた。
しかし、それはモハンマド-アリー-シャーがペルシアの近代化に関して何もしなかったという意味ではなく、ヴィンター-シャルが発見した石油利権を通じてドイツとの関係強化を推進し、従来のイギリスとロシア帝国の間に挟まれていた状況からの脱却を図っていた。
しかし、そんなモハンマド-アリー-シャーの近代化政策は1914年3月から始まったアラベスターンでのアラブ人の叛乱によって終わりを迎える事となった。
どこからか武器を得たアラブ人たちは手ごわく、訓練不足のペルシア軍では鎮圧は難しかった。その為、モハンマド-アリー-シャーは更なる動員の拡大による兵力補充と新税の新設によって戦費を賄い、アラベスターンでの反乱を断固として鎮圧しようとしていた。何しろアラベスターンは新たなペルシアの富の源泉であり、そこは是が非でも抑えなければいけないところだったからだ。
しかし、こうした政策によってペルシア国民の不満はさらに高まり、遂にミルザ-クチク-ハーン率いる立憲派がギーラーン地方で蜂起した。こうしてペルシアは内戦状態に突入していた。
さらに、ペルシア国内には元々、アルメニア人やアッシリア人が多く居住していたことから、オスマン帝国からの迫害から逃れるためにオスマン帝国内のアルメニア人やアッシリア人が移住してきていたのだが、一刻も早くアラブ人の反乱を鎮圧したいモハンマド-アリー-シャーはオスマン帝国との連携を模索し、アルメニア人やアッシリア人による反オスマン帝国活動を取り締まろうとしていたのだが、有名なフェルドウシーの叙事詩『王の書』に記述されるほど長い因縁を持つトルコ人とペルシア人の対立感情は根深く、こうしたオスマン帝国に対する妥協的な動きにスンニ派とシーア派という宗教的な対立も相まって、ますますモハンマド-アリー-シャーは国民からの支持を失っていった。
「一体、余はどうすればいいのか」
モハンマド-アリー-シャーは、未だ答えを見つけられずにいた。
1916年2月10日 ガージャール朝ペルシア エスファハーン州 フェレイダン 某所
ここフェレイダンには歴史的にアルメニア人の他にもグルジア人なども多く居住していた、とくに最近オスマン帝国から逃れてきたアルメニア人は増える一方だった。彼らの中にはこのままではオスマン帝国に送還されるのではないかとの恐怖からガージャール朝ペルシアに対して抗議活動やテロを行なう者たちもいた。それに対してペルシア政府は容赦のない弾圧を行なっていた。さらにこうしたアルメニア人対する弾圧は同じキリスト教徒という事でグルジア人にもおよんでいた。
だが、弾圧される側もそれを無抵抗で受け入れていたわけでは無かった。
「それで準備は出来たのかね」
「ああ、武器に資金…すべて問題ない」
「まさか、あれほどまでにペルシア軍が腐ってるとは…」
「まともな軍隊ならそもそも我々に対してあんな真似はしないだろうな」
「それは…まあ、確かにそうか」
そういうと集まっていた者たちが笑った。
オスマン帝国に対してゲリラ戦を展開しながら、アルメニア人の同胞と共にイランへ逃げてきたゲリラ戦術の天才アンドラニク-オザニアン、元ボリシェヴィキでロシア帝国内の銀行強盗などで活躍したネストル-アポロノヴィッチ-ラコバの2人がいた。他にも今ここにはいないが、かつて、バクーにてムスリムのボリシェヴィキ政党であるイスラム社会民主党を組織した経験からギーラーンで蜂起しているミルザ-クチク-ハーンとの連絡役にされたヨシフ-ヴィサリオノヴィッチ-スターリンや元ボリシェヴィキの党員をここに呼びよせるうえで大きな役割を担ったグレゴリー-コンスタンティノヴィッチ-オルジョニキーゼ、ボリシェヴィキと反目していたが、現地のグルジア人のために共に行動していたニコライ-セミョーノヴィッチ-チヘイゼなどがいた。
彼らがここにいたのは、ガージャール朝ペルシアに対してアルメニア人やグルジア人の力を結集してペルシアの立憲派とも連携しつつ反乱を起こすためだった。
武力を持って革命を起こし、ペルシアを変えるこれが彼らの見つけた答えだった。




