第72話 暗殺の裏側で
今回からマイナー人物解説を追加しました。
1915年10月25日 オスマン帝国 イスタンブル イスティクラル通り ロシア帝国大使館
ニコライ-ヴァレリエヴィッチ-チャリコフ駐オスマン帝国大使はアブデュルハミト2世暗殺後の混乱をはじめは喜んではいたが、やがて事態が彼の手に負えるものではなくなり始めると恐怖を覚え始めた。
「まさかこのような事になるとは…」
今日、何度目になるか分からないため息をついた。窓の外ではトルコ人たちがデモを行なっていた。
そもそも、彼自体は暗殺が実際に成功するなどとは思ってもみなかった。アルメニア革命連盟の構成員に対して適当に武器弾薬を提供しただけだった。
その、理由にしても同じ正教徒としての連帯心ももちろんあったが、一番大きかったのはロシア帝国外相セルゲイ-ドミトリエヴィッチ-サゾーノフを失脚させるため、という理由が大きかった。
サゾーノフは就任以来各国との協調外交を続けており、それは第一次世界大戦の参戦国の中では唯一の敗者と呼ばれるまでに深い損害を追ったロシアの国力を回復させるためのものだったが、伝統的な南下政策を標榜する人間には印象が悪く、特にアラブの反乱以降、中東地域が混乱に陥るとチャリコフを筆頭にこの地域に対するロシア帝国の介入を訴えるも、サゾーノフはこれを拒否した。
父が枢密院顧問官をつとめた家柄であるチャリコフに対して下級貴族出身のサゾーノフが外務大臣となり、ピョートル-アルカージエヴィチ-ストルイピン首相の後ろ盾を得て戦後のロシア外交のかじ取りを行なっているのは屈辱以外の何物でもなかった。
チャリコフのように、サゾーノフのやり方に反発するものは多かったが、ストルイピンという強すぎる後ろ盾を前に何も言えなかった。
こうして、チャリコフは最後の手段に打って出た。アルメニア革命連盟を援助し、オスマン帝国との緊張状態を引き起こす事により、ロシア国民の中にくすぶり続けている反オスマン感情や正教徒としての連帯心を呼び覚まし、その動きを利用して軟弱な協調外交主義者のサゾーノフの解任を訴えるというものだった。
ストルイピンは最初は反対するだろうが、最終的には受け入れるだろうと考えていた。何故なら、彼にとってはロシア帝国の存続こそが第一であって他の全ては枝葉に過ぎないからだ。
が、実際に行なわれたのは、皇帝の暗殺事件という、チャリコフが想像もしなかった事件だった。
自分は武器弾薬を提供し訓練を施しただけであり、皇帝の暗殺ができるほどの詳細な情報などは提供していなかったし、そもそも知り得てもいなかった。
一体誰がこのような事態を引き起こしたのだろうか、もうすぐサゾーノフは失脚するかもしれないが、自分は無事に祖国へと帰りつけるのだろうか、窓から見えるデモを見ながらチャリコフは不安に駆られた。
1915年10月26日 オスマン帝国 イスタンブル 某所
イスタンブルに立つ邸宅には2人の男がいた。
一人は統一と進歩委員会に参加したオスマン帝国軍将校ムスタファ-ケマル。もう一人はいわゆる青年トルコ人と呼ばれた改革派の中でも多数派である分権派に属していたが、その中でも特に異質な出自であるメフメト-サバハッディンだった。
サバハッディンの母はアブデュルハミト2世の異母妹、つまりサバハッディンはアブデュルハミト2世の甥にあたる人物だった。しかし、アブデュルハミト2世はたとえ甥といえども容赦する事無く、反体制派として取り締まったため、サバハッディンは長らくパリでの生活を余儀なくされていたが密かにイスタンブルに戻っていた。
「まさか、ここまでうまくいくとはな」
「イタリア人の計画に乗って正解でしたな」
「さて、問題は今後の事だが…」
「御心配には及びませんよ」
長らく多数派であった分権派だが、近年、統一と進歩委員会での主導権を失おうとしていた。理由は現在も続くアラブの叛乱とバルカン戦争の勃発だった。この二つの非常事態によって、統一と進歩委員会の中では強力な国家を望む、中央集権派の勢いが増していた。そのため、サバハッディンは賭けに出た。
オスマン帝国が混乱状態に陥ったことを利用して、分権派が数において勝っている今こそ、クーデターを起こし帝国の主導権を握るのだ、と。そして、帝国はアブデュルハミト2世の暗殺という予想外の事態によって大きく混乱している。ならばあとはクーデターを成功させるのみ、とサバハッディンは思っていた。
今後の事を心配するサバハッディンに対し、ケマルは心配はいらないときっぱり言い放った。
「ほう、何故かね?」
「叔父上によろしくお伝えください」
ケマルは一瞬のうちにオスマン帝国軍制式拳銃であるFNモデル1903を抜くとそのままサバハッディンに向かって発砲した。抵抗する暇もなくサバハッディンは死亡した。
「ふう、これで終わったな。残るはイスケンデルンのイタリア人か」
ケマルは死体を見ようともせずに呟いた。ケマルがサバハッディンに付きしたがっていたのは、未だ数において多数を占める分権派を失脚させるためだった。ケマルはそのために中央集権派から送り込まれたのだった。
その後、イスケンデルンにいたアムレット-ベスパこそ取り逃がしたものの、分権派やアルメニア革命連盟の拠点が憲兵隊に強襲され、統一と進歩委員会の中でも中央集権派が主流となった。
1915年10月27日 イギリス領キプロス スクリオティッサ
アムレット-ベスパはオスマン帝国の憲兵隊が来るよりも早く友人の知らせによってイスケンデルンを脱出していた。
「バーナムさん、本当にありがとう」
「バーナムさんなんて他人行儀じゃないか、ハワードと呼んでくれよ」
ハワード-バーナム、彼こそベスパに脱出をすすめた人物だった。スクリオティッサ郊外の鉱山で技師として働いているアメリカ人だという彼は過去メキシコにいた事もあり、同じようにかつてメキシコにいたベスパとは休暇でイスケンデルンを訪れた際に、良い友人となっていた。
そんな、バーナムはベスパの事をただのイタリア系メキシコ人の貿易商と信じ込んでいて、憲兵隊がイタリア系というだけでベスパを不当に逮捕しようとしていると知らせてくれたのだった。そのうえ、バーナムはベスパをスクリオティッサにある自分の家に案内した。
その後は二人で夕食を取り、ベスパはバーナムの家の空き部屋で眠った。翌日、ベスパはバーナムの家を出てニコシアに向かった。そこを拠点に再びイタリア王国の対オスマン帝国諜報網を立て直すためだった。バーナムは別れの際に本当にベスパとの別れを惜しんでいるように見えたという。
だが、真実は違っていた。バーナムはフランス陸軍参謀本部第二局に所属する諜報員だった。ベスパをここに連れてきたのはオスマン帝国憲兵隊に捕縛されないためだった。バーナムは直ぐに報告を行なった。
1915年10月30日 フランス共和国 パリ
「なるほど、では例の人物はニコシアにいるという事か…いや、特に気付いた様子が無ければ始末する必要は無いだろう」
フランス陸軍参謀本部第二局局長シャルル-ジョセフ-デュポン大佐は報告を聞きながら、自らの陰謀が露見しなかった事に安堵した。
フランス共和国はドイツ帝国のバルカン戦争参戦後によって、大混乱だった。特に諜報活動や秘密工作を担当する第二局は他のどの部署よりも混乱していた。なにしろつい最近までイタリアの勝利は目前と考えられており、リビアのサヌーシー教団に対する援助の窓口になっていたのは他でもない第二局だったからである。それが今度はドイツが参戦してきたから、ドイツとその同盟国の動きを妨害せよと急に言われてもすぐに名案は浮かばなかった。
そこで、目を付けられたのは実行寸前まで進んでいたオスマン帝国国内のイタリア諜報員による諜報網を壊滅させるための偽情報流布作戦だった。
元々は、バルカン戦争が少しでもオスマン側に有利になるように考案されたこの作戦だったが、これを利用してイタリア人諜報員の手でオスマン帝国を混乱させ、統一と進歩委員会政権の樹立を狙おうとしていた。
統一と進歩委員会の多数派である地方分権派の指導者であるメフメト-サバハッディンはフランスでの生活が長く、親仏家であると考えられていた。サバハッディンが密かに帰国できたのも実際には第二局の手引きによるものだった。一方で第二局の関与は決して悟られないように全てをあくまでイタリア人の計画によるものとした。イタリア人の方でもアルメニア革命連盟を利用する計画が存在していたので本物の指令に偽装するのは容易かった。
しかし、予想外の事態が起きた。第二局の想像を超えてイタリア諜報網はオスマン帝国の奥深くまで浸透しており、さらに何者かがアルメニア革命連盟に武器類の提供を行なったこともあって、アブデュルハミト2世の暗殺未遂程度で終わらせるはずが、暗殺の成功という予想外の事態を引き起こしてしまった。おまけに親仏政権の指導者となるべき、サバハッディンは憲兵隊により射殺されたと発表されていた。
だが、フランスにとっては結果的にロシア帝国参戦の可能性が出てきた事に比べれば、オスマン帝国での親仏政権樹立が失敗した事などどうでも良かった。
アブデュルハミト2世暗殺の裏側には、それに関わっていた人物たちでさえ把握しきれないほどの複雑な陰謀が絡み合っていた。
今回のマイナー人物解説
ニコライ-ヴァレリエヴィッチ-チャリコフ
ボスニア危機に関与してたり、伊土戦争で親ドイツ派が一時的に失脚した隙をついて、ボスポラス海峡の黒海艦隊の自由な通行権をオスマン帝国に認めさせようとして、失敗した挙句サゾーノフに罷免されたりとあまりいいエピソードのない人物。
史実ではこの頃は駐オスマン帝国大使を罷免されているが、後任のミハイル-ニコラエヴィッチ-ギルスが特に何のエピソードも無かったのでつまらなかったのと、史実でもサゾーノフと激しく対立していたので話を作りやすかったので、当作品では続投させた。
メフメト-サバハッディン
出自は作中で説明した通り、史実では特に自らクーデターを起こそうとした事は無かったが、青年トルコ革命後には自由党を結党し、議会内の野党勢力の指導者として活躍した。1913年に反統一と進歩委員会クーデター未遂事件が起きた際には指導者として担ぎ出された。社会学者エミール-デュルケームの熱心な支持者で、地方分権と民主化を訴え続けたが、1924年のトルコ共和国成立時にはオスマン家のトルコ共和国からの追放が定められたため追放され、1948年にスイスで没した。
ハワード-バーナム
兄はボーア戦争に英国兵として従軍しアメリカのボーイスカウト創設などで功績のあったフレデリック-ラッセル-バーナム。弟のハワードはカリフォルニア、南アフリカ、ローデシア、メキシコなどで故山技師として働いた。
第一次世界大戦が起きるとフランスのスパイとしてドイツの対イタリア戦線への関与について情報収集を行なった。記憶力が非常によく、得た情報は紙には残さず、すべて自分で記憶していたという。
シャルル-ジョセフ-デュポン
砲兵出身だが、早くも1909年にはシュリーフェン計画を察知するなど情報分野での活躍を期待されていた。1913年から1917年まではフランス陸軍参謀本部第二局局長としてフランスの諜報機関の長を務めあげた。ヴェルダンの戦いの前にはドイツの次の目標がヴェルダンである事を見抜くなど高い分析力を持っていたが、フランス軍の上層部から信頼されず、結果としてヴェルダンの戦いの際にはフランスは後手に回る事になってしまった。




