第67話 ホテルでの密談
1915年8月8日 仏領インドシナ サイゴン郊外 チョロン オテル-ヤマト
仏領インドシナは大戦中の新黒旗軍の蜂起と、掃討作戦、そして、その後の日本人移民によって大きく様変わりしていた。
サイゴン郊外のチョロンと呼ばれる中華街も例外ではなかった。ここに元々住んでいた華人たちは新黒旗軍との内通を疑われて追放され、代わって新たに入植してきた日本人が多数を占めるようになっていった。
チョロン中心部にあるオテル-ヤマトはそんな日本人街として生まれ変わったチョロンを象徴する建築物だった。
オテル-ヤマトの位置する場所にはかつてギアアンホイクアンという関帝廟があり、華人コミュニティの中心として機能していたのだが、フランス軍による掃討作戦後に荒廃していたところを日本政府が設立した半官半民の特殊会社である東洋拓殖が二束三文でその土地を買い取り、チョロンの日本人街の顔として壮麗なホテルを建設する事にしたのだった。
東京帝国大学教授である伊東忠太設計のホテルは洋の東西の様々な要素が散りばめられており、サイゴンにいながらにして世界一周の気分が味わえると好評であり、日本人のみならず外国人からの評価も高かった。
広大な敷地と豪奢な設備を持つ、このホテルはパーティーの会場としても使われる事が多く、この日もパーティーが行われていた。
「まったく、困ったものだな。同じアジア人を足蹴にする事を当然と受け入れるどころか、最早その事を気にも留めなくなっている。おまけに柱となるべき日清両国は互いを意識して無益な軍拡を繰り返している」
そんなパーティーをどこか冷めた目線で見ている男がいた。
彼こそ、このパーティーの主賓である名門近衛家の当主、近衛篤麿公爵だった。東亜各国、主に大日本帝国と大清帝国の提携を模索する東亜非戦論の熱烈な支持者であった、彼は東南アジアの列強植民地の視察のために、ここサイゴンを訪れていた。
「公爵…ここは人が多すぎます」
「ああ、わかっているよ。中山君」
近衛の発言に対し、すかさず注意を促した男がいた。中山、と呼ばれていたがその男は日本人ではなかった。
中山こと孫文は元々清国人だった。北清事変が起きると孫文はすぐにその混乱を利用して漢民族を中心とする共和制国家の樹立を目指したが、光緒帝を迎え入れて、政治的正統性を確保し、各国からの承認を取り付けた南京政府の前に孫文率いる革命派は壊滅し、孫文自身はアメリカに亡命した。
その後はしばらくアメリカで革命派としての活動を続けていたが、第一次世界大戦を契機にして、近衛と同じく東亜非戦論者として活躍するようになっていた。
そんな彼らから見て、日本人がフランス人と共に華人やベトナム人の土地を奪う光景は耐えがたいものがあった。
東亜非戦論は単なる日清連携を超えた、有色人種による植民地解放論へと変質しようとしていたのだが、実際にそうなるのはまだ先の話だった。
1915年8月8日 ドイツ帝国 プロイセン王国 ベルリン ホテル-カイザーホーフ
オテル-ヤマトがチョロンの顔だとすれば、ベルリン初のグランドホテルであり、あのベルリン会議の舞台にもなったホテル-カイザーホーフは、まさにベルリンの顔といえるだろう。
近衛と孫文がオテル-ヤマトにいたころ遠くのベルリンにあるこのホテルではある一つの謀議が進められようとしていた。
「なるほど、ではバイエルン軍はすでに準備が出来ているという事か」
「ええ、ヴュルテンブルグのアルブレヒト王太子からも準備が出来たと知らせが来ました。後はそちらの準備だけですよ。皇太子」
「ああ、なるべく早く済ませるようにしよう…出来るな?アイヒホルン、ヒンデンブルク」
「はい、殿下」
この日、ホテル-カイザーホーフに集まっていたのは、四人の軍人だった。ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム-フォン-プロイセン、バイエルン王太子ループレヒト-フォン-バイエルン、第7軍司令官ヘルマン-フォン-アイヒホルン、そして、駐ポーランド王国軍司令官パウル-フォン-ヒンデンブルクだった。
彼らが進めようとしていた計画、それはドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世のクーデターによる排除だった。
第二次ヘルゴラント海戦にて弟であるハインリヒを失った衝撃にてまともに政務をこなせない状態が続いていた。特に7月危機の際、同胞であるオーストリア=ハンガリー帝国を政治的対立の結果、見捨てた事に対しては軍内や南部の領邦からヴィルヘルム2世の能力に対して不安を抱かざるを得えなかった。
そのため、危機感を抱いていた王族や軍人たちによって、密かにヴィルヘルム2世を退位させる計画が進んでいた。そしてそれは、イタリアのバルカン戦争参戦によってオーストリア=ハンガリー帝国が追いつめられると、ただの計画から現実のものへと変わりつつあった。
ドイツ帝国の中ではプロイセン王国以外では、バイエルン王国、ヴュルテンブルグ王国、ザクセン王国が独自の軍隊を持つことを許されていた。
そのため、成功後のオーストリア=ハンガリーの救援を大義名分にバイエルン王国とヴュルテンブルグ王国を引き込む事に成功した。またプロイセンに関してはプロイセン王国王太子でもあるヴィルヘルム-フォン-プロイセンを次期皇帝とする事で、全ての参加者が同意した。
後に、王子たちの叛乱と呼ばれるクーデターの準備は着々と進行していたのであった。




