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第50話 代理人としての義務〈上〉

1914年10月17日 オスマン帝国 ヴァン州 ヴァン

「くそ、逃げろ、早く逃げるんだ」


郊外の森を着の身着のままで、走って逃げる集団がいた。トルコ人やアラブ人とは一目で違うとわかる顔つき、彼らはアルメニア人だった。


「裏切者どもを探せ。町の中だけではなく周辺もだ」


逃げる集団を追いかけていたのは、クルド人の騎兵部隊だった。彼らはその名の通りクルド人で構成された『クルド軽騎兵連隊』に所属していた。

十字軍を退け、敵であるリチャード1世からも好敵手として称えられ、聖地(イェルサレム)を解放した中世イスラム世界の英雄、サラディンことサラーフ-アッディーンがクルド人の出である事からもわかるようにクルド人は武勇の民として知られており、イスラムのスンニ派指導者(カリフ)であるアブデュルハミト2世よりアルメニア人討伐の任を受けると、多くのものがそれに参加した。

追われているアルメニア人もまた古来より傭兵として名を馳せた民族だったが、相手にオスマン帝国という国家が背後にいる以上、分が悪かった。


「オイ、オイ」

「味方か助かっ…」


突如、片言のアルメニア語が聞こえ、逃亡集団の一人がそれに答えると、いきなり発砲された。

あたりに悲鳴と怒号が響き、手に様々な武器を持った男たちがアルメニア人たちに襲い掛かった。あるものは銃で撃たれ、あるものは剣で切り裂かれて絶命する。


しばらくすると、そこは血の海だった。

戦利品をあさる男たちの頭目に合流したクルド騎兵の一人が話しかけた。


「おう、チェルケスの、派手にやったな」

「クルドのか、まあそこそこだな」


そう言って2人はアルメニア人の血だまりの中で笑った。

襲撃してきた男達はみなチェルケス人だった。彼らは元々はコーカサスの地に居住していた民族だったが、19世紀のロシア帝国の南下によって故郷を追われていた。そんな彼らにとって、ロシア人と同じ正教徒であり、時にはロシア帝国と連携して独立運動を行なっていたアルメニア人はロシア人の手先であり、いつまた自分たちの住処を奪われるかわからないという恐怖が彼らをこうした凶行へと駆り立てていた。


このような惨劇はヴァンだけで起きたものではなかった。他のアルメニア人居住区域でも起きていた他、クルド人とほぼ居住区域が重なり、古代帝国の一つであるアッシリア帝国の末裔を自称する、アッシリア人の居住区域でも同様の事が起きていた。


1914年10月20日 オスマン帝国 イスタンブール ドルマバフチェ宮殿

「そうか、異教徒どもの鎮圧は順調に進んでいるか」


アブデュルハミト2世は落ち着き払った態度で報告を受けた。

アブデュルハミト2世がアルメニア人やアッシリア人などのキリスト教徒の虐殺を命じた背景には、当時、各地で流布されつつあったトラキア及びマケドニアのブルガリアへの割譲という密約の"噂"による求心力の低下、それに乗じたアルメニア人らによる独立運動の激化があった。

アブデュルハミト2世はそれを受けて一つの決断を下す。つまり、オスマン帝国全土からの反乱分子の排除である。


同じイスラム教徒(ムスリム)ですら信頼がおけない状況で、異教徒であるアルメニア人が起こしていたテロ活動も辞さない形での独立運動はアブデュルハミト2世の猜疑心に火をつけるには十分だった。


そして、バルカン及び中東での戦乱に際して欧米列強の直接介入が無かったことがアブデュルハミト2世の決断を後押しした。


即ち、帝国内のキリスト教徒の庇護者として振る舞っていた列強諸国が動けない今こそ、全世界のイスラム教のスンニ派指導者(カリフ)であり、オスマン帝国の君主(スルタン)であるアブデュルハミト2世、自らが異教徒の反乱分子たちを排除するべきだと、決断したのだった。それが預言者の代理人としての義務だと信じて。


こうしたキリスト教徒の虐殺は巧妙に隠蔽されていたが、徐々に噂は漏れ伝わっていった。

だが、バルカン半島でオスマン帝国側に立って参戦していたオーストリア=ハンガリー帝国とブルガリア王国はこれをギリシア及びセルビア側のプロパガンダとして否定。


従来ならば、中東でのキリスト教徒の問題には必ず口を挟むフランスも真偽不明として、そのうわさを否定したために、この問題は単なる噂として終わるはずだった。


だが、それを良しとしない人物がいたのである。










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