第47話 7月危機〈2〉
1914年7月20日 イギリス ロンドン
「諸君、我々の付けた火種は今や野火のように燃え広がっている。ぼやを消して恩を売るつもりが、大火となって恩の売り先を燃やし尽くそうとしている…まったく何度聞いても理解できんよ」
「失礼ですが、中東は外務省の管轄です。本来ならばインド省が出る幕ではないはずでした…」
「たしかに管轄自体は外務省ですが、我々の事情もご理解頂きたいものですな。単純な数だけで言えば世界で最もイスラム教徒の人口が多い地域はインド亜大陸なのですぞ。イスラム圏での動乱はインド統治に多大な影響を及ぼす」
「いい加減にしないか、全く何のための帝国防衛委員会だ」
イギリス首相ハーバート-ヘンリー-アスキスの言葉に、外務大臣のエドワード-グレイとインド大臣のロバート-クルー=ミルンズがそれぞれ批難の応酬をはじめ、アスキスはため息をついた。
帝国防衛委員会とは1904年に時の首相アーサー-バルフォアが設立した軍事戦略の調整などを行なう組織であり首相がその議長職を兼ねていた。
「諜報員からの報告によればドイツ、ロシア、共に不介入を選択したとのことです」
「では、ドイツもロシア動く事は無い、と」
「情報によれば、そのようです」
「つまり、どちらも政治の季節ということか…尤も、我々とてそれは例外ではないのだがな」
帝国防衛委員会秘密業務局外国課のジョージ-スミス-カミングが報告するとアスキスは安堵した。しかしそれと同時にアスキスには不安もあった。
アスキスが不安に思っていたのは北アイルランドのアルスターに関する事だった。
アルスターではプロテスタント系が結成したアルスター義勇軍とそれに反発したカトリック系のアイルランド義勇軍によって緊張状態が続いていており、3月20日にはアイルランド全体を自治化するアイルランド政府法に反対してアルスター義勇軍が反対し、内戦寸前となった。これに対してアスキスは鎮圧を命じたもののアルスターに同情的だった英陸軍将校の中には抗議の意を示して辞職するものまであらわれる始末だった。その後、アスキスは自らが陸軍大臣を兼任し、事が起こればすぐに鎮圧する体制を整えた。
一方で、結果としてアルスター義勇軍に対する不介入となってしまったため、アイルランド人の中にはイギリス本国に対する失望が広がっていた。
このため、アスキスはアルスターの怒りとアイルランドの失望に両方に対処しなければならなかった。ドイツやロシアが動かない以上、バルカンや中東に介入するとすれば、よほどの事態が起きてからだろう。
翌日、アスキスは国王ジョージ5世に対し、正式にバルカン半島、並びに中東への不介入決定を上奏した。
1914年7月23日 フランス共和国 パリ
「バーティ大使によれば、イギリスは不介入を決定したようだ」
「右派勢力は聖地奪還を訴えるデモを計画しているようですが」
「無視しろ。我々は十字軍の時代に生きているわけでは無いのだからな」
「一番の問題はアメリカですか」
「うむ」
首相兼外務大臣のルネ-ヴィヴィアーニがイギリスの決定を伝えるとルイ-マルビー内務大臣が右派勢力に対する懸念を表明した。
フランスはナポレオン3世の第二帝政以来、レバノン並びに聖地でのキリスト教徒の保護に積極的に取り組んできた歴史があり、今回の中東での騒乱を契機にそれらの地域を正式にフランスの保護下に組み込もう、という意見が右派を中心に挙がっていた。
だが、ヴィヴィアーニはその意見を切り捨てていた。他にするべきことがあったからだ。
それを見た財務大臣のジョセフ-ヌーレンスが、ヴィヴィアーニの意を察したかのようにアメリカの名を挙げた。
アメリカはタフト政権下で自国が参加していなかったことを理由にロンドン講和会議における外債緩和の無効を宣言していた。
そのため、フランスはタフト政権以降、アメリカ政府と協議を重ね、アメリカが保有する債権の支払い遅延、あるいは減額を認めさせようとしていたが、あくまでもつなぎの政権であったリンカーン政権は態度を明確にしようとはしなかった。
一時はオランダ領東インドに対するアメリカ資本の投資を受け入れることで、合意が成立しかけていたがオランダ政府の反対によって宙に浮いてしまう。
そうした問題がこじれている中での、バルカン半島、そして中東での戦乱への介入はフランスにとって望ましいものではなかった。
「やはり、新たな市場を拡大するしかあるまい。そしてその利益で債務を完済する。北アフリカの鉄道計画はどうなっている」
「えー、サハラ縦断鉄道は水の確保が難しく思いのほか建設が難航しておりまして」
「インドシナはどうかね」
「例の受け入れた日本人移民のおかげで反乱前の水準にまで復旧は進みつつあります」
「インドシナ銀行が破綻するような事があれば、本国経済にも影響が出る。復旧を急がせたまえ。いずれにせよ今は忍耐の時だ」
こうして、フランスの不介入は決定し、ドイツ帝国、ロシア帝国、イギリス、フランス共和国のいずれの国家も動く事は無かった。
だが、それでも一度燃え広がった炎が収まる事は無かった。それどころかさらに激しさを増す事になる。




