第41話 100マイル特急
1913年 3月20日 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン
マンハッタンにある豪奢な邸宅で会合が行われていた。一人は鉄道と投機で財を成したジェイソン-グールドの息子であり、この邸宅の主でもあるジョージ-ジェイ-グールド1世。もう一人はシカゴ-バーリントン-クインシー鉄道の元技師で、閉塞システムの開発にも携わった技術者でもあるアレクサンダー-ミラーだった。
「いよいよ明日ですな、グールドさん」
「そう緊張しないでくださいミラーさん。平均時速100マイルで走る姿を見れば、誰もが貴方のエアラインレールロードを未来の鉄道だと理解するでしょう」
エアラインレールロード。
正式名称をシカゴニューヨークエレクトリックエアラインレールロードというこの鉄道は、元々は1906年にミラーが発案した計画で、平面交差を廃し、空中を突っ切るような直線の線路を持ち、その名の通りシカゴとニューヨークの間の完全に電化された路線を平均時速100マイル(160キロメートル)で走り抜けるという計画だった。
発案者のミラーはこの鉄道に絶対の自信を持っていたが、多くのものは懐疑的だった。
何故なら、100マイルという速度は、1904年5月9日にイギリスのグレートウェスタン鉄道の蒸気機関車『シティ-オブ-トゥルーロ』が郵便車一両のみを引いて下り勾配の線路でようやく出せた速度記録だったからである。
さらに、第一次世界大戦による鉄鋼などの価格上昇が、その計画に終止符を打った。
ただでさえ、ミラーの販売していた株式の売れ行きが悪かったことに加えて資材の価格高騰によって計画の続行は不可能になった。
一方、第一次世界大戦によって足踏みを強いられたのはミラーだけではなかった。
グールドによるサンフランシスコから東海岸に至る大陸横断路線も、鉄鋼価格の上昇やアメリカ社会党主導のストライキによって好景気によって投資が増えているにもかかわらず、オハイオ州トレドで止まっていた。ライバルのエドワード-ヘンリー-ハリマンこそ1909年に亡くなったが、依然として予断を許さない状況が続いていた。
グールドが足踏みしている間ニューヨーク-セントラル鉄道をはじめとする鉄道会社はニューヨーク-セントラル鉄道の『20世紀特急』のオールプルマンを皮切りに全車が豪華客車というサービスの向上に軸を移していた。
初の民間による大陸横断鉄道という名誉は既に1893年にジェームズ-ジェローム-ヒルのグレート-ノーザン鉄道によって達成されていたため、それに代わる新たな売りが必要だった。
ただの豪華列車を走らせるだけではない。合衆国の鉄道史上、いや、世界に誇れる売りが。
ミラーの計画を知ったのはその時だった。
グールドはすぐさまミラーに接触した。すでに策が尽きつつあったミラーはグールドの投資を受け入れる事とした。
こうしてシカゴニューヨークエレクトリックエアラインレールロードは終点をトレドに変えて、グールドの傘下の鉄道として建設が進んだ。そして1913年3月21日、最初の列車が出発した。
後に100マイル特急と呼ばれる事になる、平均時速100マイルで走る列車はこれまでとは違う新たな鉄道の姿を体現したものであり、合衆国のみならず世界に大きな衝撃を与える事になる。
取りあえず思いついたネタを投稿してみましたが、鉄道自体は好きなくせにあまり詳しいわけでも無いのでご容赦ください。




