第38話 チャーチルの手紙
1911年7月7日 イギリス ロンドン
サー-ウィンストン-レナード-スペンサー=チャーチルは東洋からの友人の手紙に対して返信を書いていた。
相手は寺内寿一、かつて大日本帝国駐イギリス大使館に駐在武官補佐官を務めていた人物であり、命の恩人でもあった。
チャーチルが父ロード-ランドルフ-ヘンリー-スペンサー=チャーチルの突然の死により没落の危機を味わい、それからは父の夢を継ぐために必死の努力を重ねていたように、寺内も山縣有朋が竹橋事件の責任を取って隠遁した後に、長州閥の領袖となった彼の父、寺内正毅の第2次台湾出兵に伴う失脚によって、苦労を重ねる事を余儀なくされた人物だった。
それでも、チャーチルが従軍記者としてボーア戦争に参加したように、寺内も欧州派遣軍として欧州に派遣され、第一次世界大戦での塹壕戦を戦い抜いた人物だった。
何かと政治に振り回されがちな大日本帝国において、父の失脚にも拘らず寺内がイギリス大使館で駐在武官補佐官として赴任できたのはそんな彼の功に報いる意味があった。
チャーチルと寺内の出会いのきっかけとなったのが、第一次世界大戦中のキャンベル=バナマン自由党内閣による貿易統制策だった。
キャンベル=バナマン首相とその後任のアスキスが貿易統制路線を進めていたのに対し、チャーチルは自由党内でも強硬な自由貿易論者として知られており、徐々に党内で孤立していった。それだけなら敵対する保守党に鞍替えすればよかったのだが、そうも出来ない事情があった。
チャーチルはジョセフ-チェンバレンによる帝国特恵関税の提案に反対して保守党を離脱した過去があり今更戻れる訳がなかった。とはいえ、社会主義も敵視していたので労働党に入れる訳もなく、結局かつての様に本を書くか、記者として働くしかなかった。
幸いにして後者はすぐに実現し、イギリスの大衆紙デイリー-メールでチャーチルは再び記者として働く事となった。
チャーチルのデイリー-メールでの最初の仕事は戦場特派員としてヨーロッパに赴き、フランス軍の秋季攻勢を取材する事だった。自身がかつて経験した、ボーア戦争とは比べ物にならないほどの凄惨な戦場にチャーチルは大きな衝撃を受けた。
事前砲撃で撃ちこまれる化学兵器、ドイツ軍と連合軍双方で猛威を振るう機関銃、そしてフランス軍が投入した戦車。どれもこれまでの戦争の兵器とは全く違う兵器だった。
そうしたこれまでとは様変わりした戦場に目を奪われつつも取材を続けていたチャーチルだったが、やがて同行していたフランス軍部隊が突出しすぎて孤立し、ドイツ軍部隊に包囲されてしまった。
ドイツ軍に追い詰められ、死すら覚悟したチャーチルだったが、包囲していたドイツ軍部隊を大日本帝国陸軍欧州派遣軍が打ち破り事なきを得た。その時負傷していたチャーチルの所にやってきたのが寺内だった。
その後、戦後になって寺内が駐イギリス大使館に駐在武官補佐官として赴任してきた事もあり、2人はより親交を深める事となった。
後にチャーチルはイギリスを代表する親日家として知られるようになる。また、ある歴史家によればそれまで政治に興味を示さなかった寺内が、陸軍を退役したのちに広島県(第5次伊藤内閣で成立した府県廃置法案によって寺内が幼少時を過ごした山口県吉敷郡宮野村は山口県の消滅によって広島県となっていた)から出馬して、政治家へと転身した事をチャーチルからの影響によるものとする説もある。




