第328話 2つの起工式
1945年5月1日 南アフリカ連邦 ベチュアナランド州 オカヴァンゴデルタ
「素晴らしい。まさにこれぞ現代文明の驚異。だが何よりも喜ばしいのはこれによって祖国の飢餓が解消されるかもしれないということだな」
取材に訪れていたドイツ人農学者ヘルベルト-フリードリヒ-ヴィルヘルム-バッケは喜びを隠しきれずにそういった。
南アフリカ連邦に併合されて20年ほどが経つ旧ベチュアナランド保護領、現ベチュアナランド州では近隣国家である南北ローデシアと旧ポルトガル領アンゴラが結びついて生まれた中央アフリカ連邦、その宗主国であるイギリス、いまだ国内に大協商軍が駐留しているにもかかわらず賠償のための積極的協力という名目で参加を表明していたドイツ帝国によってオカヴァンゴデルタにおいて大規模な土木計画が開始されていた。
それは一帯を流れるオカヴァンゴ川をせき止めて巨大なダムを建設するというものであり、成功すれば巨大な農業用の貯水池として不安定なオカヴァンゴ川に頼らずとも安定した水の供給を受けることができるというものだった。この日はその起工式だった。
このダムの完成を特に熱望していたのがドイツだった。オカヴァンゴ川における農業用水の確保はドイツ領南西アフリカの農業化に役立つと考えられており、それは大戦中のベジタリアン作戦による農地汚染に現在も苦しんでいるドイツの苦痛を和らげるものになると考えられたからだった。ドイツは本土での農業資源の確保は難しく、フランス共和国やポーランド連邦共和国といった主要農業国家はドイツ自身の行ないによって今なお敵対的だった。そのためにこのダムの建設においては多くのドイツ人たちが志願してアフリカの地を踏んでいた。その一方で、建設にあたってドイツはイギリスからの秘密借款を受けており、経済的にはさらに従属を強いられることは目に見えていたがそれでも飢餓よりはましだった。イギリスのこうした動きは国内で盛り上がりつつある大陸からの撤退論に合わせて、ドイツにある程度自力での復興を行なわせつつ、イギリスの勢力圏の下でフランスへの牽制に利用しようとする意志の表れだったが、こうした動きはさらにフランスを刺激することにつながることになる。
南アフリカもダム建設によって乾燥したベチュアナランドにおいて将来の白人入植用の農地の確保ができるため乗り気であったが、反対に消極的なのが中央アフリカだった。中央アフリカにはほぼ完全な白人化を成し遂げたドイツや多くの白人人口を持つ南アフリカと違い、大規模な土木計画のために予算を割く余裕はなかった。というのもそもそも元々多くの黒人たちが居住していたのだが、今やそれに加えてアンゴラまでもがその領土となっていた。資源的には多くの労働人口を持ち、鉱物資源も豊富だったが、そのインフラは壊滅的でありインフラ整備に多くの予算を割かねばならなかった為だが、もう一つの問題もあった。
それはカナダから来た黒い肌の移民たちだった。
彼らは元はノバスコシアやニューブランズウィックなどに居住していた黒人だったが、中央アフリカにとっては厄介な存在だった。彼らの中にはアメリカ独立戦争や1812年の米英戦争においてイギリス側で戦った者たちの子孫であり、特に戦時中アメリカ合衆国に対して劣勢だったカナダは、そうした祖先の歴史と愛国心を強調して従軍を求めた。こうした従軍経験を持つ黒人たちの存在は中央アフリカからすれば脅威だった。移民後の黒人たちはカナダにいた時と同じように自立的な居住地を作ってそこで生活していたが、中央アフリカ側はそうした居住地に対して幾度も妨害行為を行なった。黒人側からしてもカナダにいたころには差別こそあっても白人との婚姻や政治的権利も認められていたにもかかわらず、それを一切認めない中央アフリカの姿勢に反発し"ジョージ3世以来の忠誠"を合言葉に反対運動を行なった。
また、それ以外の白人系のカナダ人移住者たちも中央アフリカに衝撃を与えた。カナダでは元々人種隔離的な政策は連邦ではなくあくまでも地方政府の判断によって実施されていたのだが、中央アフリカの人間からすれば緩すぎ、黒人に対して融和的な白人の裏切り者として映った。そうした非難に対して白人系のカナダ人移住者たちも中央アフリカの行動を無用な緊張を高めていると非難し、反発した。こうした国内情勢のため中央アフリカには参加に対して消極的だったのだが、本国であるイギリスの意向もあって参加せざるを得なかった。
この後、中央アフリカでの問題は未だにアンゴラに居住し続けていたポルトガル系中央アフリカ人の存在もありさらに複雑化することになる。
1945年6月28日 イラン民主連邦共和国 バンダレ-アッバース
事実上の敗戦処理によって第3代大統領に就任していたモハンマド-タギー-ペシアンはその日、イランを縦断する大土木事業の起工式に参加していた。カスピ海とペルシア湾を結ぶ運河であり、ゆくゆくはロシア帝国領のコーカサス地域を横断する運河も建設することで黒海を通じて地中海に至るという壮大な計画の一歩だった。
「今日から始まる大事業はペルセポリスやエスファハーンの宮殿よりも偉大で、そして何よりも全人類のためとなる大事業だ。そしてこの大事業が終了したその日こそ新たなるイランが生まれる日なのだ」
ぺシアンはペルシア湾のほうを見るのを避けながら演説を続けた。もっともイランでも有数の港町であるこの町で演説をしているからにはどうしても目に入ってしまうのだが。
ぺシアンがペルシア湾を見るのを避けたのはそこにこの大事業の開始とその援助と引き換えに割譲を余儀なくされた、ホルムズ海峡に位置する要衝であるケシュム島が存在していたからだった。
もちろん、ぺシアンは割譲に反対したが、イギリスは運河建設以外にも近代化のための広範な資金援助を申し出てきていた。この援助の背景にはアラブ帝国から独立を果たしたエジプト共和国がスエズ運河地帯を挟んでハーシム朝アラブ帝国とにらみ合っているという状況下であり、スエズ運河に代わる代替案が求められたことやイギリス領インド帝国改め南アジア連邦とロシアとの交易量増大により、鉄道幹線以外の交通の整備が求められたこと、などが理由として挙げられるが、一番の理由は戦後イギリスの資金がヨーロッパの復興ではなく、植民地への投資に向けられ、余った資金をイランのような国々に投資していただけだった。
こうした莫大な投資を前にぺシアンはついに1856年のペルシアイギリス戦争以来占領下にあったブーシェフルとの交換という形で応じる事とし、イギリスとしても近隣にクウェート首長国というイギリスの影響下にある首長国が存在する以上、酷暑と湿気に悩まされるブーシェフルに拘り続ける利点は薄いと判断し交換が成立した。
しかし、こうしたイギリスのイランへの肩入れはフランスによるアルメニア共和国及びアラブ帝国への支援の拡大を招き、それは近東地域においてイギリスの優位への挑戦が始まったことを意味していた。
オカヴァンゴ-デルタにダムなんか作ったらゾウもサイも大幅に減少しそうではあるけど、まぁまだ20世紀中ごろだから…
カナダの忠誠派黒人はシエラレオネがリベリア領になった結果、ローデシア(マラウイが南アフリカ領の代わりにアンゴラとくっついた)行きになりましたが、ローデシア人は忠誠派黒人なんて認めないだろうなぁと考えた結果こうなりました。ローデシア改め中央アフリカはうまくいけばポルトガル系とも異文化とはいえ協調してそれこそ史実カナダのような国になるんでしょうけどね。
カスピ海とペルシア湾を結ぶ運河計画は史実でもイランが割と定期的に立てては消えてるやつですが、こっちだとちょうどスエズ運河地帯を挟んでアラブ帝国とエジプトがにらみあってる危険地帯なので、せっかくだから作るかということで作りました。




