第317話 建築家たちと夢の続き
今さらコロナにかかってしまい寝込んでいたので投稿が遅れました。
1944年4月10日 極東社会主義共和国 イルクーツク
シベリアのパリとも呼ばれるイルクーツクはかつては壮麗な町だったが、極東軍とロシア帝国軍との戦闘により荒廃していた。そんな、イルクーツクでは同盟国であるアメリカ合衆国の援助のもとで復興が進められていた。
「なるほど、では旧来の都市は一旦解体するのか」
「ええ、そのほうがよいでしょう。どのみち都市というものは近い将来消えてなくなるでしょうからな。道路を軸とした線上にこの国の国土と国民すべてが集うのです」
視察に訪れていた極東社会主義共和国国家主席であるエヴゲーニイ-イワーノヴィチ-ザミャーチンにアメリカ人建築家であるフランク-ロイド-ライトは自信たっぷりに答えた。
アメリカのみならず全世界で知らぬもののいない建築家であるライトは近年1つのアイデアに憑りつかれたように没頭していた。そのアイデアとはブロード-エーカー-シティというものであり、アメリカ国民の1家族に1エーカーの土地を与え、そうした家族が集まったコミュニティを形成、そのコミュニティと仕事場を自動車交通網で結びつけることによって自給的な"都市"を作り上げるという都市という名とは反対に既存の都市からの逃避と分散を目指した構想だった。かつてライトが考案し、実行した郊外都市計画の究極の姿ともいえるこの計画はまさにライトのそれまでの人生の集大成ともいえる傑作だった。
ライトはこのアイデアをアメリカ政府に戦災で傷ついた北部地域と占領したカナダ地域の復興計画の基礎として提案した。当初こそ戦災を契機に既存の都市を解体し、人間中心の新たな都市を形成しようと考えていたテクニカル-アライアンスのハワード-スコットといった人物の理解により実施に向かっていたのだが、そこで思わぬ横槍が入った。横槍を入れたのは愛国党の南部閥だった。西海岸中心の愛国党西部閥に対抗するべく南部閥は様々な問題で西部閥に対する反対を行なっており、当然、戦災復興案をめぐっても衝突したのだった。南部閥は愛国党支持者が多かったことから第二次内戦時に愛国党支持を貫き、その褒章として戦後にトリ-インシュラ州という形で事実上の都市国家のようにニューヨーク州から分離したかつてのニューヨーク市とその周辺のニュージャージー州ニューアークなどがかつての州境を超えて合併ののち49番目の州として加盟することと都市解体は矛盾する政策ではないかと西部閥を攻撃した。
結局、北部地域では両者の妥協として区画整理などによる各都市の効率化程度に留められ、残るカナダ地域ではブロード-エーカー-シティは概ね実行されたものの、肝心の建築物は発明家のカール-グンナー-ストランドランドの発明したホーロー鋼板製のプレハブ住宅が多くを占めることとなりライト自身が携わることはほとんどなかった。これは、政府として必要としていたのは迅速な復興と入植であり、有機的で美しい建築ではあるが時間がかかるライトの建築は必要とされていなかったからだった。
自らの集大成を台無しにされたライトは海を渡り極東においてブロード-エーカー-シティを実現しようと考えたのだった。そして、この1家族ごとの自由な土地の分配という考えは、極東において事実上の一党独裁体制を確立している社会革命党政権がかつてのロシアの社会主義の方向性を巡って争ったボリシェヴィキの目指した集団化ではなく、小作人への自由な土地分配と所有を志向していたことから、極東政府にも支持されることになる。
こうして極東領各地で伝統的なロシア地域の建築ともヨーロッパ式の建築とも違う独特の有機的建築が出現することとなり、それは改めて極東という国家がアメリカの同盟国であるという証を視覚的に示すことになったのだった。
1944年4月11日 フランス共和国 大パリ パリ1区
ドイツ軍の攻撃により傷ついていたパリはようやく復興をはじめていた。
もっとも、その道のりは簡単なものではなく、そもそも、分散型の国土計画をすすめる中で、かつてのような巨大都市であるパリの復興は必要なのかという疑問が主に地方からあがっていた。これはそれまでのパリへの集中と中央集権に対する反動でもあり、首相であるアンリ-オーギュスト-ドルジェールの支持者からもよく言われることではあったが、ドルジェールとしては新憲法の成立を目指す中でフランスの象徴といえるパリをバラックが立ち続けるままで放置することもできなかったため、パリ周辺諸地域を編入し大パリとして、かつてのパリだけでなく周辺地域も含めた一体的な復興を目指すとしたうえで、遅まきながらパリの復興に着手していたのだった。
「ようやく、この日が来たな」
「ああ、長かった。しかし、アレは本当に要るのかな」
「複合施設として利用するためだとは聞いているがね」
「ただ、ついでに作りたかっただけじゃないのか?」
「…否定はできんが、見栄えはいいと思うよ、うん」
パリ復興に携わっている建築家アンリ-プロストの言葉に同じく建築家であるオーギュスト-ペレは再建設が進むテュイルリー宮殿を見ながらそう言った。パリ-コミューンによって焼失させられたテュイルリー宮殿だったが、今回の復興に合わせてドイツ軍の攻撃で焼失したフランス国立図書館やドイツの占領により接収してきた美術品(主に近代美術やルーデンドルフ政権による破壊から免れた古典美術)の類などを収蔵する向かい合うルーヴル美術館と対になる新美術館、かつての所在地であるパレ-ロワイヤルから移転してきたコメディ-フランセーズを収容する複合施設とするために再建設されることになったのだった。
「まったく、結局は見栄えか」
「そう言うな。アガッシュやバルデもリヨンで頑張ってるのにここで折れてどうする。なにより、エナールの計画を引き継ぎたいといったのは君だろう」
「…すまん、悪かった」
プロストが漏らした言葉に対してペレはきつく反論した。
ペレやプロストはただドルジェールの言うとおりに記念碑的建築物を作り続けていたわけではなかった。かつて、プロストとともにフランス都市計画家協会を創設した1人であるウジェーヌ-アルフレッド-エナールは大都市としてのパリの発展の弊害である緑地の少なさや交通の混雑を嘆いていた人物であり、人工地盤やインフラの地下化によってそれらの問題を解決できるとして発表した未来のパリの予想図はフランス都市計画家協会に所属していなかったペレにも大きな衝撃を与えたが、エナール自身は20年ほど前に病没していた。
だからこそ、プロストはエナールの理想を今回の復興計画でできる限り実現させよう考え、ペレもそれに強く賛同した。コメディ-フランセーズが移転することになったのもエナールの計画に基づいてフランス銀行本部が取り壊され、代わりに新たに建設された通りに分断されたパレ-ロワイヤルの西側が割り当てられたためだった。もちろんペレの発案により費用低減のために住居の規格化や均質化を推し進めたり、プロストがエナールの時代よりもはるかに発達した自動車交通に合わせた中央に高速用車線を備えた大規模な道路建設、景観に配慮した同心円状の規制を行なうなどエナールの案とは異なってしまった所も多かった。
しかし、結果としてペレとプロストによるパリ復興はプロストやエナールとともにフランス都市計画家協会を創設した1人であるドナルト-アルフレッド-アガッシュとペレやプロスト、アガッシュの後輩にあたり、フランス版田園都市を長年構想していたガストン-バルデが共同で同時期に行なっていたリヨン出身の建築家でリヨン包囲の最中に死亡したトニー-ガルニエの計画を下敷きにしながらもアガッシュによる市街の用途別地区区分と放射状に広がる田園または工業向けの衛星都市やそれらを結ぶバルデの案による地下高速道路の整備を合わせたリヨン復興案と共に戦後フランスの都市のモデルを確立することになったのだった。
ようやく、パリの復興まで書けました。本当はコルビジェでも良かったんですが、そもそもあの人スイス人だし(史実でいう)ヴォワザン計画ネタはインドシナでやったし、あとこのころプロストが史実でパリの改造案を出していたのとペレのル-アーヴルの復興計画とかエナールのパリ改造案とかも使いたかったのでプロストとペレの2人にしました。
バルデの地下高速道路と田園都市は本当はパリのための計画ですが、プロストがいわゆる田園都市のような構想を嫌っていたそうなのでリヨンの復興案としました。




