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第316話 団結の理想と現実

1944年3月22日 オランダ領東インド ジャワ島 バタヴィア 植民地議会

「我々は団結という考えを捨てるべきではない。この東インドに生きるすべての人々が東インドのために働きたいというのならば、それを受け入れるべきだ。そこに出自は関係ない。意志こそが重要なのだ。我々は団結しなければならない」


植民地議会(フォルクスラード)の議場で演説していた男、エルネスト-ダウエス-デッケルは声を張り上げた。だがそれに対する拍手はまばらだった。植民地議会(フォルクスラード)でこの日議論されていたのは、第二次世界大戦中の日系人及び清国人移民への補償とその後に関する政策についてだった。清国人移民の歴史は古くオランダ統治以前から根を張っていた者たちもいたほどだが、20世紀ごろから急増した日本からの移民やその子孫の数は今やはそれに迫るほどだった。


そうした日本人移民の多くは働き手として人口が少なかったスマトラ島やボルネオ島、ニューギニア島に入植させられることが多かったが、小売業などを生業として都市部に住むもの少なからずいた。こうした黄色い移民の急増に総督府は危機感を募らせ、徐々に排斥する方向に動いた。


その総仕上げとして行われたのが1935年から1936年にかけて起こったアメリカ企業に対する大規模な暴動を根拠とした日系人および清国系移民の収容だった。総督府がこうした政策を実行に移した背景には一つにはそうした移民たちに対する恐怖心があったが、もう一つは東インド統治をより"円滑"にしようと考えたからだった。


20世紀に入ってからオランダ王国は綿や染料、香辛料、コーヒーといった作物の作付を強制する悪名高い強制栽培制度からよりインフラの整備や教育の拡大などの人道的な政策へと転換しようとしていた。だが、1901年の実施からしばらくして第一次世界大戦が勃発しオランダ本国が戦渦に巻き込まれたことで植民地よりも本国の復興が優先されたことにより、中断され本格的に実施されたのは1910年代末頃だった。


だが、そうした先住民たちの暮らしぶりが向上していくのをすべてのものが歓迎したわけではなかった。特に大きな反発を示したのは"インド人"と呼ばれていたオランダ人をはじめとする白人と先住民との混血者たちだった。かれら"インド人"はオランダ人と先住民の双方から差別あるいは敵意を受けながらもその両者の間に立つ存在として、高等教育を受け、東インド各地で活動していた。だからこそ、"インド人"は先住民の多くが教育を受けることになれば自らの地位を危うくするという危機感から反対運動を行ない、先住民はそうした反対を見てますます"インド人"に対する敵意を持つようになっていった。


こうしたことから30年代に入るころには東インドでは俄かに緊張が高まっており、それを解決するために"インド人"に対する優遇措置という形で"インド人"を懐柔する一方、先住民には英領インド帝国の財閥たちのような総督府に近い土着企業を育成を試み、また、人口が年々増加していたジャワ島出身者には移住と引き換えの近代的な暮らしの提供という形で納得させようとしていた。だが、この政策には問題があった。土着企業の育成に関しては経済的利益が侵されることに対して清国系移民たちが団結して反発していたし、スマトラ島やボルネオ島、ニューギニア島といった入植候補地は過酷な環境にも負けず開拓を進めた日本人移民の所有する土地が多かった。


そのため、1935年から1936年にかけて起こったアメリカ企業に対する大規模な暴動は総督府にとっては、またとない好機であり、それを口実に日系どころか関係のない清国系までも収容し、その財産を接収したのだった。総督府がこうした大胆な決断を下した背景には太平洋地域におけるアメリカの優位があり、少なくとも太平洋での勝利は確実と考えられたことから、これを機に東インドの統治上の問題を可決しようと考えたのだった。実際、こうした接収された資産の分配により、現地人の生活水準は大幅に向上していたし、戦時下という状況もあって少数の反対意見以外は反発はなかった。


デッケルはそうした少数の反対意見を述べた者の一人だった。オランダ人の父とドイツ人とジャワ人の間に生まれた母を持つ"インド人"としてデッケルは本国で高等教育を受け、"オランダ人"としての意識を持つに至った事から、第一次世界大戦時のオランダ軍へ志願するも拒否された経験から、オランダ人、先住民、"インド人"といった出自にかかわらず東インドに生まれ、東インドのために尽くすものは東インドの人間であり、すべての東インドの人間は団結しなければならないという理想主義的な思想を持つようになった。デッケルの思想はその出自を重視する先住民民族主義者にも、オランダへの忠誠を持ち続けることこそが自らの安定につながるとする"インド人"にも受け入れられることはなかったが、それでもデッケルは声をあげ続け、ついには逮捕された。


戦後になって釈放されたデッケルは再び声をあげ、植民地議会(フォルクスラード)の議員にも選ばれたが、それでもその思想が理解されることはなかった。先住民も"インド人"も大戦中に得た権益を手放すつもりは全くなく、一応の財産返還が決議されたものの、その実施は難航することとなり、移民たちは祖国である大日本帝国や大清帝国において窮状を訴えた。しかし、そうした動きは総督府のみならず、先住民や"インド人"にも危機感を抱かせることに繋がり、皮肉にもデッケルの理想としたようなオランダ人、先住民、"インド人"が団結する体制を作り上げることにつながるのだった。

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