第311話 復興と発展の裏で
1943年12月1日 アメリカ合衆国 アブサロカ準州 シェリダン
「みなさん、シェリダンにようこそ、ここはあなた方にとっての新たな故郷としてふさわしい場所です。なぜならここには自由があるのですから」
アブサロカ準州選出下院議員であるウォルター-リップマンはバスやトラックから続々と降りてくる人々に対してそう言った。人々は愛国党政権の進める"復興"から逃れてきた人々だった。
リップマンは自由を重んずる立場から愛国党政権の政策に一貫して反対していたが、アメリカ人同士の内戦を望んでおらず、スメドレー-ダーリントン-バトラーのような武力による政権打倒を目指した者たちとは相いれなかった。
このアブサロカ準州はリップマンのように武力に頼らず新たな州である自由州の創設を目指す愛国党政権への平和主義的反対者たちが都市部を優先して自分たちのことを蔑ろにされていると感じていたワイオミング州北部、サウスダコタ州西部、モンタナ州南部の地域住民とともに分離して作り上げた準州だった。同様の事例はテキサス州北部とオクラホマ州西部を分離して誕生したテクラホマ準州でも見られた。
また、アラスカ準州では人口が希薄な旧カナダ北部の占領地域との地域住民の意見を無視した一方的な合併後の州への昇格案に反対してアラスカ準州単独での自治連邦区への昇格運動が行なわれていた。これはアンカレッジの弁護士であるジョン-エドガー-マンダースが税金徴収は違法であるという信念の下で進めていたものであり、マンダースは自治連邦区になった場合の納税額は、単純に州となった場合よりも低いものになると主張していた。多くのアラスカ準州民はそうしたマンダースの主張を信じてはいなかったが、それでもマンダースとともに行動したのは、
『アメリカ人である自分たちが何故、旧敵国と一括りにされなければならないのか』
という心情的理由からだったのだが、そういった"非効率"を憎む、新設されたエネルギー省長官としてアメリカ政治に多大な影響を及ぼす存在となっていたハワード-スコットはそうした反対意見に耳を傾けようとせず、アラスカを巡る政治的論争は泥沼化する一方だった。
一方でそうした愛国党政権に反対していた州だからこそ、そこを目指した者たちもいた。かつての"反乱"の敗北者であり、ニューヨーク州から分離したトリインシュラ州などの一部を除き、公民権を停止されていた北部地域の出身者だった。愛国党政権内ではかつての南北戦争後の南部地域になぞらえ、皮肉として復興軍管区とも呼ばれた未だ軍政の続く北部地域出身者たちは、北部から離れる際には軍管区発行の査証の所持を義務付けられていたため、実際には移住しても公民権停止が解かれることはなかった(査証を未所持の場合はさらにひどく追放や射殺すらあり得た)し、食糧不足に陥った北部住民に南部地域で生産されたカバの肉が供給されていた(副大統領であるヒューイ-ロングがカバ肉産業のパイオニア的存在であったことからロングの個人的利益のための決定という噂がささやかれていた)ことからカバ食う奴らと差別もされた。だが、それでもわずかな希望に縋るように西を目指していたのだった。
こうした北部からの逃亡者の増加とそれによる北部の停滞は深刻な問題としてとらえられるようになり、その占領を終了させるべきではないかとの議論につながったが、旧カナダ地域の問題もあり、すぐに結論が出ることはなかった。
1943年12月25日 リベリア共和国 ニューハーパーズ-フェリー マーカス-ガーベイダム
リベリア中部に位置し、大西洋からは24kmほど離れた場所にあるニューハーパーズ-フェリーはもともと何もない土地だったが1920年代にアメリカのファイアストーン-タイヤ-アンド-ラバー-カンパニーによるゴム農園建設計画の候補地となったことで注目が集まった。ゴム栽培を新たな産業の柱にしたいリベリア政府はすぐに同意し広大なゴム農園が誕生…することはなかった。同時期に行なわれていたリベリアからフェルディナント-ポー島への奴隷同然の出稼ぎ労働と、それにリベリア政府高官がかかわって利益を得ていたことが問題視され非難を受けたファイアストーン社は建設計画を断念し、あとにはただ整理された土地だけが残った。
その土地に目を付けたのが黒人のアフリカ大陸への帰還運動を行なっていたマーカス-ガーベイだった。ガーベイは農園建設予定地をかつて、アメリカの奴隷解放活動家ジョン-ブラウンが蜂起したウェストヴァージニア州ハーパーズ-フェリーにちなみニューハーパーズ-フェリーと名付けて、アメリカから来た黒人たちの入植地としたのだった。
第二次世界大戦後には、イギリスおよびフランス共和国との再戦に備えてアメリカ陸軍航空隊とリベリア陸軍航空隊の共同基地(といっても使用するのはほとんどアメリカ軍だった)であるロバーツ陸軍航空隊基地が近くに建設されるとニューハーパーズ-フェリーはさらに発展を遂げた。一方で懸念されたのが電力不足であり、必要な電力を賄うためにファーミントン川沿いに巨大なダムが作ることが計画され、それが今日完成したのだった。
「ニューハーパーズ-フェリーは順調に発展しているが、今後もますます発展するだろう。そしてそれを支えるのがこのダムだ。諸君、このダムはリベリア史上、もっとも高値だが、同時に価値のあるクリスマスプレゼントだ。私は不幸にも3年前に脳卒中で亡くなってしまったガーベイ氏の友人の一人として彼に敬意を表してこのダムをマーカス-ガーベイダムと名付けたい」
憲法の改正により事実上の終身大統領となっているチャールズ-ダンバ--バージェス-キングがそういうと聞いていた群衆たちが次々と拍手した。キングはそれを満足そうに見つめていた。
キングにとってガーベイの死は不幸ではなくむしろ喜ばしいものだった。不正選挙でしか政権を維持できなかったキングは常にガーベイのカリスマを恐れていたが、一方でその死後に功績を否定するようなことはしなかった。無理に否定するよりも徐々に作り変えていったほうが都合がいいと考えたからだった。例えば、ガーベイの提唱した"公正な資本主義"という考えを利用して政敵たちの"不正蓄財"を攻撃する一方で、統制経済を嫌うアメリカ企業を誘致して自らは慎重に私腹を肥やし続けた。マーカス-ガーベイダムにしても作り上げたのはカリフォルニア州オークランドに拠点を置く建設会社であるヘンリー-ジョン-カイザー株式会社だった。
宗主国たるアメリカはこうした問題点を把握していたが放置していた。アメリカ政府は西海岸派閥の唱える優生学という"理論"と南部閥の黒人奴隷以来の"伝統"の両方から黒人に対して否定的な見方をしていた。それを象徴するかのように翌年にはハーパーズ-フェリーの黒人大学であるストアラー大学がニューハーパーズ-フェリーに移転することが決まっていた。イリノイ州スプリングフィールドからハーパーズ-フェリーへの造兵廠移転がその理由だったが、これは第二次内戦時に最後まで抵抗した州の一つであるイリノイ州への懲罰であると同時にジョン-ブラウンの蜂起により黒人たちの間で聖地化が進んでいたハーパーズ-フェリーからその歴史を抹消しようとする動きでもあった。
しかし、こうした問題はありつつもリベリアへの投資は莫大であり、その経済は順調に発展していくことになるのだった。




