第310話 1つのヨーロッパを目指して
今年もよろしくお願いします。「」の内容は筆談で会話文ではないため「」を使うのはどうかと迷いましたがとりあえずわかりやすさ優先で使いました。ご意見があれば修正します。
1943年11月16日 オーストリア=クロアチア=スラヴォニア帝国 ウィーン
ハプスブルグ家の帰還後、正式にオーストリア=クロアチア=スラヴォニア帝国と名を改めた国家の首都であるウィーン某所では2人の男が話していた。2人の男が話していたのはウィーンでは珍しい日本語であり、会話の内容が重要なものであることから盗聴を避けるためにあえてそうしていたのだった。
『ナルホド、ツマリ、フランスジンヤイタリアジンハイギリスヘノタイコウノタメニイッタダケデアッテホンキデハナイ、ト』
『まったくもって残念ですが、貴方の誕生日祝いに欧州連合への第一歩を…とはならなかったわけです』
『イヤ、ゲンジョウヲカンガエレバシカタノナイコトデショウ』
『…やはり、筆談に?』
『オネガイシマス』
『それにしても可笑しなことですな。半分は日本人の伯爵より私のほうが日本語がうまいのだから』
長らくにイギリスにおいて亡命生活を送りながら大学では日本語学者として教壇に立っていたこともあるオーストリア=クロアチア=スラヴォニア共通外務次官エリック-マリア-リッター-フォン-キューネルト=レディンがそう言いながら笑うのを見て、この日が49歳の誕生日である伯爵リヒャルト-ニコラウス-エイジロ-クーデンホーフ=カレルギーは複雑な表情を見せた。
1894年、東京で日本人の母である光子と父であるハインリヒ-ヨハン-マリア-クーデンホーフ=カレルギーとの間に生まれたクーデンホーフ=カレルギーであったが、父であるハインリヒはヨーロッパ人として育つことを望んでいたため日本語の教育を受けることができなかった。1905年にハインリヒが急死すると光子は東洋人に対する偏見からハインリヒを謀殺したと噂され、それは裁判に勝った後も変わらず、追い打ちをかけるかのような第一次世界大戦が光子の精神をすり減らしていった。
当時少年だったクーデンホーフ=カレルギーは愛する母親がその身に流れる血によって苦悩し、愛する祖国が戦乱によって傷つくのを見て民族、国境を越えた平和の実現を願うようになる。そしてそれは成長した後も変わらずクーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパ統合のために先頭に立って動き始めたが、いくら、第一次世界大戦を経て平和を求める声があちこちで叫ばれていたとはいえ、ヨーロッパ統合という考えはあまりに突飛すぎた。
さらに、ほどなくして起こったドイツ革命によって新たな思想である社会主義に期待を寄せる意見が増えたが、革命により兄ハンス、妹のイダがなくなり、のちには財産を失い放浪生活を送っていた母である光子が満足な治療を受けることもできぬまま1925年に亡くなったことで社会主義を憎悪するようになっており、そうした親社会主義的な意見を厳しく批判したことでハーバード-ジョージ-ウェルズなどの離脱を招くなど求心力は低下した。
しかし、それでもクーデンホーフ=カレルギーは活動を続けたが各国からの理解は得られず、第二次世界大戦中にプロパガンダとして活用されたのみだった。だが、ロンドン会議後のフランス共和国のドルジェールとイタリア王国のボシスの発言から始まった熱狂によって、ついに自らの理想が実現するのかと期待していただけにキューネルト=レディンから詳細を知らされたクーデンホーフ=カレルギーの落胆は非常に大きかった。
「これは一つ提案なのですが、例のバルカン諸国の会議、あれをより実効的な組織に変えようという動きがあるのですが、伯爵も後押しをしていただけませんかな」
「断る、我々は特定国家の利益ではなく、全ヨーロッパのことを考えなければならない」
「ですが、結果は先にお伝えした通りです。ならばそこを曲げてでもまずは実例を作らなければならないのでは?」
紙に書かれたキューネルト=レディンの言葉にクーデンホーフ=カレルギーはすぐに答えを返すことができなかった。バルカン諸国の会議とは、大戦中に経済などの分野での国際機関の設立を通じて、最終的な国家間の相互理解に導こうとする理論である機能主義的国際主義論の提唱者であるルーマニア人国際政治学者デイヴィット-ミトラニーの提言に従って、ルーマニア王国のカロル2世が中心となって開いた会議であるバルカン経済会議のことで大戦中のバルカン諸国の経済面での結束を目的としたものだった。
最近ではそれを恒久的なものとし、将来的にはという前提ではあったが政治的統合も目指そうとする意見もあった。これを受けてオーストリア=クロアチア=スラヴォニア内では賛成あるいは反対と意見が2つに割れていたのだった。賛成派はボヘミアやハンガリーといったかつての構成国を失い、帰還したオーストリア本土にしても傷ついており、経済面からバルカン経済会議の枠組みの存続を求めていたが、反対派はかつての敵国であるセルビア王国やルーマニアへの恨みを持ち出して強硬に反対した。
クーデンホーフ=カレルギーはそうした普通の反対派とは少し違った面から反対していた。あくまでも全ヨーロッパの統合を目指すクーデンホーフ=カレルギーは地域統合はむしろ特定の地域中心主義につながると考えたからだった。この日、キューネルト=レディンがクーデンホーフ=カレルギーに会ったのは心情面から反対しているわけではないクーデンホーフ=カレルギーならば、説得できるのではないかと考えたからだった。クーデンホーフ=カレルギーにしても期待していたドルジェールとボシスの発言があくまでも政治的なパフォーマンスにすぎなかった以上、キューネルト=レディンの言葉に従うほかなかった。
翌月にブカレストで行われた、ヨーロッパにおける地域単位での連合体の最初の成果であるバルカン連盟、通称小協商の発足式典にはクーデンホーフ=カレルギーの姿もあった。
そして、式典後のインタビューでクーデンホーフ=カレルギーはこういった地域的組織の設立を積み重ねることで将来的なヨーロッパ統合を実現したいとの考えを述べた。全ヨーロッパの統合を目指してきた人間の方針転換はヨーロッパ統合運動に関わるものに衝撃を与えると同時に多地域の統合を通して1つのヨーロッパを作り上げるという理念の下、地域ごとの統合運動が盛り上がりを見せる切っ掛けになったのだった。
キューネルト=レディンの経歴を少し変化させています(史実ではアメリカに亡命)。




