第309話 国際会議と"会談"とその影響
1943年9月10日 イギリス ロンドン シティオブウェストミンスター クラレンス-ハウス
クラレンス-ハウスは1827年に後にウィリアム4世として即位したクラレンス公爵ウィリアム-ヘンリーのために建てられた宮殿であり、現在は1900年以来コノート=ストラサーン公爵家のものとなっていたが当主であったアーサーが1942年に亡くなり、跡を継ぐ予定であったアーサーの孫であるアラステアが1938年に第2王立竜騎兵連隊スコッツ-グレイの戦車兵として従軍し、オーラリアで戦死していたため空家となっていた。
この日、そんなクラレンス-ハウスに隣接するイギリス王室第一の宮殿であるセント-ジェームズ宮殿には手狭となっていたクロイドン空港に代わり、新たなロンドンの空港として拡張されたヘストン空港から出発した車列が到着していた。そこに乗っていたのは農民運動指導者から首相にまで上り詰めたフランス共和国のアンリ-オーギュスト-ドルジェール首相、戦時内閣を率いたロドルフォ-グラツィァーニから戦後、すぐに行なわれた総選挙で政権を獲得した若干42歳の若き指導者、イタリア王国のラウロ-アドルフォ-デ-ボシス首相であり、出迎えたのは分裂の末に下野した保守党に代わり、自由党と政権を争ってイギリス初の労働党出身の首相となった、堅実な議会政治家レオポルド-チャールズ-モーリス-ステネット-アメリーだった。首脳たちはイギリスが呼び掛けたエジプトに始まった一連の問題を協議するための国際会議に参加するために集まっていたのだが、彼らがにこやかに握手を交わす中で、クラレンス-ハウスから怒りに震えながらそれを見ていた人物もいた。
ハーシム朝アラブ帝国大アミール、アッバース-ヒルミー2世の嫡男であり、体調がすぐれぬアッバース-ヒルミー2世の名代として会議に参加していたムハンマド-アブデル-モネイムだった。この会議にはアラブ帝国も名を連ねてはいたが、実際には会議の前にイギリス、フランス、イタリアの首脳らが"会談"を行ない、その後会議が開かれるという日程になっていたため、大枠は"会談"で決まってしまう可能性が高く、モネイムはただ列強同士の話し合いの結果を聞かされるためだけに待たされているようなものだった。
「まだ、タイプし終わらないのか」
怒りを滲ませながらモネイムはそう言ったが、怒りで時間が縮むはずもなく虚しさだけが募った。モネイムが命じていたのは、エジプトの独立を認めることはアラブ帝国への主権侵害であり、その結果として政治、経済、文化…あらゆる領域においてキリスト教とムスリムとの間で摩擦を引き起こすことにつながるという趣旨の書簡の作成だった。
モネイムがこのような書簡の作成を命じたのは、自らのことを存在しないかのように扱われた怒りと何もせずに引き下がるわけにはいかないという意地、そしてエジプトという帝国内でも屈指の豊かな土地を奪われた中で、もうしばらくすれば訪れるであろう自らの時代に父の築いた栄華を存続させたいという打算からだった。
モネイムはアッバース-ヒルミー2世とは違い、自らの置かれた状況がかなり危ういものであることをわかっていた。モネイムにとって敵はイギリス、エジプト、アルメニア、イランといった外だけではなかった。いつまでも実権を奪われることを良しとしないカリフたるハーシム家、それに乗じて動こうとする各地の諸侯、教義的に相容れぬシーア派やドゥルーズ派、そしてイギリスの庇護のもと力を蓄え続けたクウェート首長国…もっとも警戒すべき敵は内にあった。
こうした、"内側の敵"に対してアッバース-ヒルミー2世も無策であったわけではなく、19世紀に故郷であるコーカサスからロシア人に追放されて以降放浪を続け、ようやくゴラン高原に安住の地を得て、ユダヤ人のパレスチナからの移送後は代わってパレスチナへと進出を続けているチェルケス人、あるいはかつてのオスマン帝国時代には弾圧していたアッシリア人たちにいまや追われる立場となり各地に離散していたクルド人、そういったアラブ人以外の者たちを重用することで何とか切り抜けようとした。
だが、さすがに本拠地であるエジプト喪失の衝撃は大きく、それだけではもはや切り抜けることは出来ないと考えられたため、モネイムはこの会議ではっきりと意思を示すことで大きな混乱を未然に防ぎ一族の繁栄を守り抜こうとしていたのだが、会議自体が形式的なものにすぎない以上モネイムにできることはこうして書簡を送って再考を促すことだった。
しかし、そのようなことをしても状況が好転することはなかった。
モネイムの危惧通り、結局、クラレンス-ハウスでの会議、通称、ロンドン会議は、その前に行なわれた"会談"、セント-ジェームズ会談によって大枠が決まっていたためモネイムの主張が通ることはなく、結局、エジプトの独立は追認される一方で、スーダンについては南部地域とダルフール-スルタン国の独立と引き換えに、残部については"マフディー教団の討伐後"にアラブ帝国へと引き渡されるなどイギリス優位な内容が決まった。
セント-ジェームズ会談がこのようにイギリス優位に進んだのはフランス、イタリア両国の"強い指導者"であるドルジェールもボシスも、一見没個性的な、しかし、経験豊富な議会政治家であるアメリーの強かさに太刀打ちできなかったからだった。ドルジェールもボシスも"役者"としてはアメリーよりはるかに強烈な個性を持っていたが、"政治家"としてはその足元にも及ばなかった。
一方、振り回された側、特に伝統的に反イギリス感情の強い国家、フランスの首相であるドルジェールの悔しさは強かったが決まった後で覆すことはできず、ただ内心悔しさをかみしめながらフランス、トゥシュ-ル-ノブル飛行場に降り立った際に報道陣を前に、
『これが平和だ。ヨーロッパにもはや戦争はない。今や我々は一つだ』
と署名した条約文書を振りかざしながら、得意の熱狂的な演説をすることしかできなかったが、これが、ドルジェール自身すら思いもしなかった反応を引き起こした。ドルジェールはフランス内外で平和の使徒として歓迎されたのだった。これはヨーロッパの人々がいかに平和を望んでいたのかを示していたが、ドルジェールの、そのあまりに熱狂的な演説は、ヨーロッパの人々が幾度となく思い描きながら消えていった夢である『1つのヨーロッパ』を想起させるには十分であり、イタリアでもボシスが同様の演説をしたことから、熱狂の中で『1つのヨーロッパ』という言葉が叫ばれる一方で、交渉の結果としてはるかにイギリス優位の条件を勝ち取ったはずのアメリーは、存在しない『1つのヨーロッパ』について議会において追及されるという、対照的な結果となったのだった。
今年の投稿はこれで最後です。読者の皆様、良い御年をお迎えください。




