第306話 幼馴染の死
1943年4月3日 イラン民主連邦共和国 北西州 オルーミーイェ
古くよりアッシリア人が多く居住し、カルデアカトリック教会大司教座の所在地であるオルーミーイェでは、イランと隣国であるアルメニア共和国との間で国境線の画定交渉が行なわれていたが、ちょうど前日に終了したところだった。
「それにしても久しぶりじゃないかヨシフ」
「シモン、まさかお前が交渉に現れるとは思わなかったよ」
交渉の終了後イラン側の代表者であったヨシフ-ヴィサリオノヴィチ-スターリンとアルメニア側の代表者であるシモン-テル-ペトロシアンは親しげに話していた。2人が親しげなのには訳があった。2人はアルメニア人とグルジア人の違いこそあれどグルジアのゴリに生まれ育った幼馴染であり、その後はボリシェヴィキとして活動を共にした同志でもあった。
スターリンが主に労働者の扇動に従事していたのに対し、ペトロシアンの仕事は"資金調達"だった。といっても、非合法な革命組織であったボリシェヴィキの資金調達方法とは銀行強盗のことであり、第一次世界大戦中はロシア帝国を混乱させようとするドイツ帝国の思惑もあって比較的自由に活動を続けられていたが、大戦が終わるとあっさりとドイツ側に裏切られてロシア政府に捕縛された。当時は首相であるストルイピンの厳しい弾圧下であり死刑は免れないと考えられたが、ペトロシアンは一時的に収監された監獄において精神異常者を演じた結果、終身刑に減刑され、その後はロマノフ王朝成立300周年記念により特赦されるまで精神異常を演じ続けた。それだけのことができたのはペトロシアンが心の底から社会主義を信奉していたからだった。しかし特赦後すぐにスイスのレーニンのもとへ馳せ参じたが、その後、レーニンが死亡したことでボリシェヴィキは組織として瓦解してしまった。
その後はボリシェヴィキから民族主義へと転向したステパン-ゲヴォルギ-シャフミアンとともにアルメニアに向かい、そこでペトロシアンは過激な民族主義者であるガレギン-テル-ハルトゥニアンと出会った。
ハルトゥニアンの思想はアルメニア国内の人間を血統だけではなく思想的にも"純粋な"アルメニア人であり、他のアルメニア人を導くに足る能力を備えたエリートであるツェカクロン、そのツェカクロンに導かれる存在であるゾコヴルド、そして敵対的存在であるタカンクの3種類に分類し、ツェカクロンはゾコヴルドを導いて、タカンクを支配しなければならないと説いた。
レーニンという柱を失い、政治勢力として死んだボリシェヴィキに絶望していたペトロシアンは、その空白を埋めるようにハルトゥニアンが唱える過激な民族主義にひかれ、熱狂的支持者となった。ペトロシアンはアルメニアにおいてトルコ人やクルド人に対して終始冷酷な態度でのぞみ、敵だけでなく味方からも処刑人と恐れられた。
そうした活躍によってペトロシアンが出世していたころ隣国イランではスターリンが革命時の功績によって出世を続けていることを知った。だが、それでも2人が連絡を取ることはなかった。イランとアルメニアの間には国境線をめぐる激しい争いがあり、共に重要な立場を任されることになった2人が接触するわけにはいかなかった。だが、それもこの日までだった。国境線画定と平和条約の調印を終えた両国は今や友好国であり、スターリンとぺトロシアンもこうして親しく話すことができていたのだった。
「とりあえず一杯飲めよ」
「ああ、いただこう…」
「……おいおい、もう酔ったのかヨシフ?」
「…白々しいウソを…お前いったいなにを混ぜた?いや、そんなことはどうだっていい…どうしてだ…どうして…友人を…同志を殺すのか」
「ヨシフ、お前は今でも友人だ…だが、同志じゃない」
「なんだと、お前も…俺も同志レーニンに…」
「同志レーニンだと、あいつは初めから俺たちのことを同志だと思っていなかった。同志ならばなぜお前のことをチフリス人と呼んだ?あいつは所詮ただのロシア野郎なんだ。あいつが生きてれば今頃俺たちは2人とも墓の下だ」
苦しむスターリンを見ながらペトロシアンは怒りを込めて怒鳴った。チフリス人とはスターリンのボリシェヴィキ内部におけるあだ名のようなもので、その名はトビリシのロシア名であるチフリスに由来するもので、スターリンは嫌がったが、レーニンはこのあだ名を好んで使っていた。今のペトロシアンにとってもはやレーニンは尊敬の対象ではなく、スターリンがその名を出したことに怒りとともに大きな悲しみを感じた。
「だから…俺は今こうして正しい行動をしている…祖国のために」
「シモン、お前は…」
「安心しろ。お前の死は無駄じゃない。俺の祖国にとってはな」
そういってペトロシアンは煙草をくわえた。それを見たのを最後にスターリンの意識は完全に途絶えた。
しばらくして部屋から出てきたペトロシアンが煙草に火をつけたのと、部屋が炎に包まれたのはほぼ同時だった。
この日発生したスターリンの死についてイラン側は国境線画定に反対するアルメニア側の過激派の仕業とし、直ちにアルメニアとの内通を理由にアルメニア人のほか旧ボリシェヴィキの拘束を始めたが、ペトロシアンの証言によりアルメニアはイランを非難し、イラン領内のアルメニア人救援を名目に侵攻を開始した。
この一連の出来事の背景にはイラン国内での権力闘争が大きく影響していた。大統領であるレザー-ハーンはスターリンのような旧ボリシェヴィキの影響力がいまだに強い現状を憂いており、領土の拡大を求めるアルメニアを引き入れてイラン北西部の割譲を条件とした軍事行動を起こさせ、それを理由とした戒厳令によって旧ボリシェヴィキを一掃しようと考えた。アルメニアとしてもかつての旧領奪還は魅力的であり、ハーンの提案を飲んだ。結果としてアルメニアは計画通りに北西部を併合したが、もう一方のイラン側では想定外の事態が起こった。
始まりはハーシム朝アラブ帝国と隣接するアラベスターン自治州だった。アラブ人やトルコ系諸民族が多くを占め、半独立状態であるこの地域では政府に対する反発がもともと強かった。そこに目を付けたのがハーシム朝アラブ帝国に属しながらも半独立状態であるクウェート首長国であり、イランとの緩衝地帯を作るためにアラブ人たちに対して援助を行なった。こうして武器を手に入れたアラブ人と政府軍との間での衝突が始まったが、異教徒であるアルメニア人の侵略を放置して民族は違えど同じムスリムを討つことを優先する姿勢に反発が相次ぎ、鎮圧は行き詰った。
さらに、これを見て動き始めたのが南東部のバローチ人だった。英領インド帝国とイランに分割されていた彼らはイランからの離脱と英領インド帝国保護領であるカラート-ハン国への併合を主張した。これはかつてカラート-ハン国がバローチ地域を初めて統一した国家を築いていたことに由来する動きであり、もちろんこれはイギリスにとっては全く予想していなかった出来事だったが、イギリス政府内部にはイギリスの石油利権が多く存在していたアラベスターン自治州へのイランによる攻撃を問題視する意見もありこれを機にイランを分割すべきとの声もあがりはじめた。
こうした相次ぐ蜂起を受けて、アルメニア軍が北西部を超えて進撃する動きを見せ始めると、イラン国家憲兵隊司令官であるモハンマド-タギー-ペシアンはクーデターを起こしてハーンを拘束し、旧ボリシェヴィキたちを釈放して挙国一致体制を掲げたが、すでに時遅く結局イギリスの仲介によりアラベスターンとバローチ地域の分離を受け入れることを余儀なくされ、イランの領域は大幅に縮小することになる。
こうしてレザー-ハーンの企てた一連の陰謀は終わったが、その余波が各地で混乱を引き起こすことになる。インドにおいては来る独立に向けた会議が続く中、カラート-ハン国が将来のインドから分離した国家となるかをめぐり大きな混乱が巻き起こった。
そして、最も混乱したのはハーシム朝アラブ帝国だった。半独立状態にあることを利用して勝手に軍事援助を行なったことを問題化してクウェートの併合をもくろんだが、こうした動きをイギリスが容認するはずもなく、逆にハーシム朝アラブ帝国において絶大な権力を振るう大アミール、アッバース-ヒルミー2世の領地であるエジプトにおいて混乱を引き起こそうと工作を始めさせる結果になった。
ペトロシアンのつけた火は消えることなく、さらに盛大に燃え広がろうとしていた。
レーニンのチフリス人については侮蔑的ニュアンスの強い言葉なのでグルジア野郎と言う風に意訳しました。
ハルトゥニアンの思想、いわゆるツェカクロニズムについては史実で大体30年代ごろに生まれたものですが、こちらではアルメニア民族国家の成立と周囲を敵対国家にかこまれているという状況から考えて、その成立が早まるだろうと考えてかなり前倒ししています。




