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第305話 自治領の誕生

1943年3月31日 デンマーク王国 デンマーク領西インド諸島 サンクトトマス島 シャルロッテ-アマーリエ クリスチャン城


シャルロッテ-アマーリエの中心部にある要塞で22年前には国際会議であるシャルロッテ-アマーリエ会議の舞台ともなったクリスチャン城に聳え立つゴシックリヴァイヴァル様式の時計塔から集まった多くの人々に向けて一人の男が演説していた。


「同胞たちよ。先ほど総督は私の提案を受け入れた。今この瞬間よりこの地は我々にとっての故郷となる。ポーランド人に裏切られ、ロシア人に追い立てられ、必死の思いで逃げ出した我々をスウェーデン人は放り出した。だが嘆き悲しむことはない。私たちは確かに住む場所を、帰る家を手に入れたのだから、この島々は今日よりダウスヴァ自治領として我々の故郷となるのだ」


演説を聞いた人々は喝采を挙げた。その声を聴きながら、演説をしていた男カズィス-パクシュタスは満足そうに微笑んだ。


パクシュタスはロシア帝国領であったリトアニアに生まれ、幼いころよりリトアニアに誇りを持ち、ロシアを憎悪して育ち、子供ながらにロシア皇帝ニコライ2世を誹謗中傷する内容のビラの配布に参加したこともあった。やがて、第一次世界大戦によってリトアニアからロシア人が追放されると新たな宗主国となったドイツ帝国に留学し、そこで社会学や地理学を学び、学位を取得した。


ドイツ革命後はリトアニアに戻って地理学を教える傍ら、キリスト教以前のリトアニア文化に関する研究を行なった。そうしていくつかの著作を残したパクシュタスだったが、その著書の中でパクシュタスがバルトスカンディアという概念について言及したことから、平凡な研究者としての日々は終わりを迎えることになった。


これはリトアニアのほか、ラトヴィア、エストニアなどのバルト諸地域とデンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国などの国家は文化的に近しいことから、交流を通して連帯することができ、将来的には国家としての統合も可能であるという概念だったが、当時、多くの社会主義ドイツからの亡命者がスウェーデンやノルウェー、またはそれらの国々を通して各国に亡命していることに社会主義ドイツが強い警戒感を持っていたことを考えれば、北欧諸国との交流を促進すべきと訴えることはあまりに危険であり、パクシュタスは大学を追われ、デンマークへの亡命を余儀なくされた。


そして、デンマークにおいて何とか印刷所での仕事を得た矢先に第二次世界大戦が勃発したのだった。

世界大戦という大惨事においてパクシュタスにできることは何もないと思われたが、社会主義ドイツと敵対していた大協商から接触を受けた。大協商が求めたのはドイツの側にたって参戦していたリトアニア人に向けたプロパガンダ製作だった。一度はロシアが大協商に属していたことから断ったが、戦後のリトアニア国家独立を条件に承認することにした。


そして自らを亡命リトアニア独立国家の大統領に任じたパクシュタスは精力的に行動を続けたが、それが報われることはなかった。


ポーランドの社会主義陣営からの離脱と引き換えにリトアニアは割譲されてしまったからだった。パクシュタスは当然抗議したが、リトアニアよりもはるかに戦力として大きいポーランドの引き込みに成功したことや反ロシア、反ポーランド感情から社会主義者の側に立ってバルト系住民が勇戦を続けたことを大協商が徹底的な非社会主義化が必要であると解釈したことなどもあって、リトアニア人による独立国家の夢はあっさりと潰えてしまった。


さらに追い打ちをかけたのがバルト海を超えて必死の思いで亡命したものたちへの扱いだった。彼らは選別されドイツ系が居住を許される一方で、それ以外は"社会主義者"として追放された。『北方人種の家』を掲げていたスウェーデン王国並びにノルウェー王国からすれば北方人種であるドイツ人は受け入れの対象であったがそうでない諸民族は追放されて当然だったが、これはバルトスカンディアを提唱し、北欧とバルト諸地域の一体性を信じていたパクシュタスには衝撃的な出来事だった。辛うじて中立国であったデンマークとオランダ王国がそうした亡命者たちを受け入れたことだけが救いだったが、そこでも苦難が待っていた。


両国にはすでに敗戦間近のドイツからの大量の亡命者たちが大挙して押し寄せており、ともに植民地であったグリーンランドやアイスランド、アンティル諸島や東インド、スリナムなどに移送していた。西インド諸島が例外だったのは第二次世界大戦の結果として、カリブ海植民地の多くがアメリカ領となったことから一時はアメリカ合衆国への売却が模索されるも、大協商はカリブ海植民地を失ったことから将来的なアメリカとの戦争に備えた拠点として、逆にデンマークによる維持を望み暗礁に乗り上げていた。グリーンランドでもアメリカと大協商の間で綱引きが行われており似たような状況ではあったが、こちらは1931年にノルウェーが領有権を主張していたため、自国領土であることを示すためにも移民を進める必要があったが、西インドにはほかに競合する国はなかった。


一方で順調だったのがアンティル諸島や東インド、スリナムなどのオランダ領への移民だったが、オランダ、デンマーク双方に共通していたのが移民先での同化政策だった。それなりの国力ある両国ではあっても大国に比べれば国力は低く、だからこそ同化政策による人口増を試みていたのだが、リトアニア人としての誇りを強く持ち、リトアニア以外の場所は一時の止まり木に過ぎないとみなすパクシュタスには同化政策などは受け入れることはできず反対の声をあげ続けた。


しかし、そうした反対の声が意外なところで注目された。それは他ならぬデンマーク政府だった。


アイスランドやグリーンランドのように豊かな水産資源があるわけでもなく、かといって国際情勢ゆえに放棄することも許されない、そんな土地である西インド諸島はすでにデンマークにとって重荷であった。そこでデンマーク政府はリトアニア人による文化的自治区域を設置して、西インド諸島を割り当てることにした。もちろん、これは事実上の棄民政策であったが、対外的にはヨーロッパよりもはるかに温暖な地に難民たちを定住させるという人道的理由から行なわれたものとされており、リトアニア人たちによる自活を促進することでデンマークの負担を減らしつつ中立政策を維持しようという狙いがあった。


そして、パクシュタスはデンマーク政府からの提案を快諾した。パクシュタスは設置される自治区の名をリトアニア神話に登場する黄金のリンゴが生い茂る理想郷ダウソスに因んでダウスヴァとした。


こうして、のちにカリブ海で最も風変わりな場所と呼ばれることになるデンマーク王国ダウスヴァ自治領が誕生したのだった。

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