表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
302/330

第302話 "印度葉巻"を吸いながら

1942年12月1日 朝鮮王国 華城

「"印度葉巻"とはどんなものかと思いましたがかなりきついのですな」

「兵たちの中でも好き嫌いがわかれるからな。ま、私は悪くないと思うがね」


現在の国王英宗のクーデターののちに漢城より遷都された華城では2人の元日本人が葉巻を吸いながら談笑していた。


1人は朝鮮にわたったのち北一輝(ブクイルフィ)と改名した北輝次郎であり、もう1人は元日本陸軍軍人で、朝鮮陸軍元帥として朝鮮王国遣欧軍(といってもせいぜい2個師団程度でありその主任務は後方警備だった)を率いた石原莞爾だった。


もっとも、北が1931年のクーデター未遂事件である10月事件に積極的に関与して亡命することになったのに対して石原はクーデター計画を知ってはいたが、成功の可能性は万に一つもないとしてむしろ反対していたにもかかわらず、法華宗の熱狂的な信者であったことから軍を追われ朝鮮にわたってきた人間だった。


そのため石原は朝鮮に渡った後もかつての10月事件参加者を馬鹿にする傾向が強く、北をはじめ朝鮮での農業指導で名をあげた橘孝三郎などの民間右翼を特に軽蔑していたため、石原も北も互いのことを嫌っていた。だが、そんな関係にも祖国を追われて10年以上が経過すると変化が現れた。というより、日本人としてではなくかつての祖国と決別する決心を2人とも固めたからだった。


2人のかつての祖国である大日本帝国はアジア主義を標榜するにもかかわらず、未だ朝鮮王国に対して批判的だった。アジア主義的信念から民間人たちの交流こそあったが、君主である昭和天皇がかつての10月事件に対していい印象を持っていなかったからだった。


逆につながりを深めていったのが大清帝国の北部地域とさらにその背後にあるロシア帝国だった。

この2国(より正確には1国と1地域)はともに極東社会主義共和国に接しておりその打倒を目指していたからだった。熱烈な反共主義者であるロシア皇帝アレクセイ2世は清国の北部地域から朝鮮を通り、日本に至る包囲網の形成を目論んでいた。


そして、それに乗ったのが南京から遠かったために半ば自立していた北部の清国軍だった。

特に北部の清国軍を束ねる蒋介石は自らの権勢のためにロシアとのつながりを望んだ。もちろん清国政府はこれに反発し、陸軍大臣を兼任していた内閣総理大臣である張作霖は蒋介石に対し中央への帰順を求め、拒否されるやイギリス政府の協力を得て事態を打開しようとするも、イギリス側の返答は蒋介石の自立を容認するような曖昧なものだった。


これはイギリスがロマノフ家と縁戚関係にあることも理由の1つだったが、それ以上に大きかったのが清国政府への不信感であり、大清帝国が第2次世界大戦中にイギリスの意に反する行動をとったことを危険視するものがイギリス政府内に多かったことから蒋介石の自立容認による事実上の分割統治を意図したこと、そして、イギリスがロシアを支持したのはインド独立を巡る問題の影響もあった。大戦中の車両や生活物資などの支援を通して英領インド帝国との結びつきが強まった。2人が吸っていた"印度葉巻"もインドではビディと呼ばれるあまり高級ではないものだったが、嗜好品を求める兵士たちへの供与品として数多く生産されたものだった。そうした大戦中の結びつきの結果として、いまだ復興途上のロシアには様々な場所にインド系民族資本が食い込んでおり、ビディの味を覚えたロシア人や清国人は大戦が終わってからもビディを買い求めるようになっていた。


そしてイギリス本国はインド資本のロシア進出を積極的に容認していた。理由としては近く認められる予定のインド独立によって将来的にはイギリスがインドに支配されるような事態を招くのではないかという危機感があり、そうした危機感を払拭するためにイギリスはインドとは別個の民族として独自国家の樹立を求めたドラヴィダ人に接触する一方でそうした動きにより反発を招かないように、ロシアという市場を差し出すことによる経済的利益という飴を与えたのだった。インドの産業の多くが軽工業主体であり、重工業が中心となっていたイギリス本国の産業界からの反発も最低限に抑え込み、結果としてインドの産業界のロシア進出は加速した。


こうした動きは他地域にも影響を与え、英領インド帝国の一部となりながらも分離を目指していたビルマではビディの需要増加に合わせてインド資本によってビディを巻くためのボンベイコクタンの生産地とされ、経済的にはインドに完全に取り込まれてしまった。とにかくこうしたイギリスの都合により清国北部地域は半独立状態を維持していたのだった。


一方、そんなロシア、清国、朝鮮の共通の敵国である極東はといえば、併合した旧満州およびモンゴル地域からの漢人、満人、蒙古人の追放に躍起だった。代わりに穴埋めをするように入植させられたのが、アメリカ合衆国とそのアメリカの占領下にあるカナダやほぼ地球の裏側である南米の旧アルゼンチン共和国より押し寄せてきた移民たちだった。


アメリカからの移民たちはかつての第2次内戦中に反愛国党を掲げて戦い、その後も愛国党政権に従わなかった者だった。一方カナダからの移民は従わない者の多くがイギリスに追放されたアングロカナダ人やフランスへと完全追放されたフランス系カナダ人以外の者だった。


そして、最後のアルゼンチンからの移民に関してはもはや移民というより民族移動といったほうが正確だった。アルゼンチンはエントレリオス州とサラド川以北のブエノスアイレス州をウルグアイ東方共和国に、ラプラタ川以北とフフイ州東部をパラグアイ共和国に、フフイ州西部とクージョ地方をチリ共和国に編入し、残りはパタゴニア執政府の領土となって消滅していた。


そしてその後のアルゼンチン人たちを待っていたのは容赦ない収奪だった。アメリカという大国の影におびえる南米諸国は常にアメリカとの再戦に備えており、そのために技術移転を熱望していたが大戦中ならばいざ知らず、大戦が終わった現在では列強諸国の動きは鈍かった。そこで、目を付けたのはかつての敵国であるドイツに与して戦っていたウクライナ人やベラルーシ人だった。直接交戦したわけでもないため恨みもなかったため、彼らの中から技術者や軍人をいまだ復興が進まないロシアとの食料のバーター取引で交換したのだった。もちろんこの食料の出どころはアルゼンチンであり、豊かといわれたパンパ地域ですら飢餓が起きるほどだったが各国は気にしなかった。


こうした状況にアルゼンチンからはかつての同盟国へと脱出しようとするものが後を絶たなかったがかつての同盟国の対応は冷淡だった。アメリカもオーストラリアも共に反移民を信条としていたため、白人人口を増やしたいオーストラリアが少数を受け入れたほかは無視され、結局、ロシアとの戦いに備えて人口増加策をとっていた極東が多くを受け入れたのだった。


「そういえば、石原閣下は朝鮮名は考えなくてもよいのですかな」

「さすがに親から受け継いだ姓と貰った名を捨てるのは、な。…そういえば"花園"はどんな感じかな」

「順調のようです。…気は乗りませんが」

「白人どもはアジア人を人と思ってはいない。戦うのならばこれぐらいするのは当然だよ」


暗い顔をした北に石原はそういった。"花園"は朝鮮各地に作られたアヘンの原料である芥子の農園のことだった。


敵国である極東にアヘンをばらまいて内部から崩すという策略はいまだ近代化が進まない朝鮮がとった苦肉の策だったが、多くの富を朝鮮にもたらすことに成功した。さらに、芥子栽培の適地を探すための調査の中で鉱物資源を発見するなど将来の基盤を作ることにもなったが、一方でその後の鉱物資源採掘に伴って進出した外国企業による経済支配、政府による転換政策にもかかわらず芥子栽培が農業の多くを占め続けることになるなど、のちの朝鮮が直面する多くの課題の原因ともなったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この節は国際政治の力学は20世紀初頭のまま科学、経済、社会の発展が加速した20世紀中葉の様相を端的に示しています。 この小説全体の特色を明瞭に見て取れる点で面白いです。 アジアにあって日清…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ