第298話 "自由"の復活
1942年5月11日 ポーランド連邦共和国 ルブリン ルブリン大学
大戦終結後にヘウムから移り臨時首都となったルブリンに存在するルブリン大学はもともと1918年にルブリン大学として創設されたが、その後の革命によりルブリン人民大学となり、戦後はまたルブリン大学に戻っていた。そんなルブリン大学で満席の部屋で講義を行なっていた男がいた。
「…よし、ではここまでにしよう」
ルブリン大学経済学部教授ルートヴィヒ-ハインリヒ-エードラー-フォン-ミーゼスが言うとその言葉を聞いた学生たちは次々と部屋を出て行った。幼いころからの教育の賜物によりポーランド語を流暢に使いこなすミーゼスの講義が人気なのはミーゼスの理論こそがポーランドでは最先端とされているからだった。
そんなミーゼスがなぜポーランドにいるかといえば戦後のオーストリアの復興構想をめぐる論争で敗れたからだった。ミーゼスは各国からの投資による自由経済に基づくオーストリアの復興を考えていたのだが、ミーゼスの考えは大戦での経験から統制経済が浸透していた戦後の世界では異質なものでありミーゼスの提案は受け入れられなかった。農村部を中心とした抵抗活動を指揮しており、その功績により戦後臨時議会議員に任じられたエンゲルベルト-ドルフスなどの保守派はミーゼスがユダヤ系の土地を持たない貴族であったことから、ミーゼスのことを"ユダヤ野郎の土地なし"や単に"あの土地無し"と呼んで罵倒した。ドルフスらはキリスト教と階級社会に基づく国家の再建を考えており、そうした人間にとってはミーゼスは邪魔者だった。
社会主義ドイツの蛮行をフランス革命以来の大衆革命の当然の帰結として批判し、神聖ローマ帝国的な国家の再建を主張する一方でミーゼスとも親交もあったエリック-マリア-リッター-フォン-キューネルト=レディンは両者の仲介を試みたが、ミーゼスはすでに和解は不可能であるとして祖国を離れて、ここポーランドに来ていたのだった。
なぜ、フランスではなくポーランドだったのかといえば、大戦を通じて反共主義から反ユダヤ主義的傾向が少しづつ増え続けていた西欧各国に比べて、ポーランドではドイツ軍との苦闘や戦後も依然として続くロシア人の恐怖から、少しづつユダヤ人が認められるようになっていたからだが、これは急に人道主義に目覚めたというよりは戦後のポーランドの立ち位置のため仕方なく行なわれた決断だった
ポーランドは共同交戦国であっても大協商の正式加盟国ではなかったため、その地位は危ういものだった。そのため生き残りをかけて国際的機関の誘致を行なうこととし、大戦中の攻撃によりジュネーヴを追われていた列国議会同盟の新たな所在地として立候補したが、立候補していたのはポーランドだけではなく中小国同士の穏健な農民中心の社会主義国家同士の連帯であるオレンジインターには属しているものの、周囲を敵に囲まれているハンガリーもまたそうだった。そして各国、特に大戦中にハンガリーへの"特別な地位"を約束することで亡命オーストリア帝国政府の参戦を引き出したフランス共和国はハンガリーの主張を擁護し、列国議会同盟はブダペストがあらたな所在地となった。
ならばと、次にポーランドは『世界都市』構想に手を挙げた。これはベルギーの平和活動家ポール-マリー-ギスラン-オトレの構想に基づいたもので、世界中から学生を集め教育する場としての国際大学やその学生や訪れた人々が自由に使える図書館や博物館、美術館、列国議会同盟をはじめとする国際機関の事務所や各国の大使館などが置かれたどこの国にも属さない中立都市を築くという構想だった。この構想自体は大戦以前より浮かんでは消えていったが、未曽有の惨禍をもたらした第2次世界大戦を契機に再びよみがえっていたのだった。
『世界都市』構想に関してはどこの国にも属さない中立都市という前提条件から、主権の侵害であると反発も強かったが、ポーランド政府はそうした反発を押し切って誘致に乗り出した。だが、こちらもまた強敵がいた。大戦中を親ドイツの中立国として過ごしたがために周辺各国から恨みを買っていたオランダ王国、そして北欧各国の中でも仮想敵であるアメリカ合衆国に近いグリーンランドやアイスランドなどの植民地を有することで大協商から注目されていたデンマーク王国だった。
デンマークは自国に何も知らされないまま戦後処理の結果としてシュレースヴィヒ=ホルシュタインを押し付けられており、荒廃したこの地域の復興のための起爆剤を欲しており、各国からの研究機関や学生たちを呼び込む『世界都市』構想はうってつけと考えられた。
デンマークはフレゼリクスタッドと改名されたかつてのフリードリヒシュタットを提案した。かつてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク3世が東洋やロシアとの交易を夢見て作り上げた都市を次は世界の知識の集積地にしようと考えていた。結果としてポーランドよりもデンマークを重視した大協商各国の意向もありポーランドは敗れたのだった。
次に1944年に予定されているロンドンオリンピック、1936年開催予定のものが順延したバルセロナオリンピックに続く、1952年オリンピック都市としてルブリンを立候補させるもいまだ復興途上のため国内からの批判は大きく初期段階で脱落した。なお、1952年のオリンピックに関してはアムステルダムも立候補していたが、大協商主要国のフランスを中心に支持を集めた大日本帝国の首都東京が選ばれることになった。
こうして国際機関の誘致に失敗し続けたポーランドは国内にさらなる自由をもたらす方向へと舵を切ったのだった。自由なる国ポーランドを強く押し出すことで国際社会での孤立感を薄めようとする戦略だった。国内、特に反ユダヤ団体からは大きな反発が予想されたものの、幸いにしてポーランドにはそれらを封じ込める前例がかつての歴史の中にあった。
"黄金の自由"と呼ばれた貴族共和制がそれであり、すでに戦後まもなくポーランド政府は征服したリトアニアなどの反乱を抑止するためのプロパガンダとして『ユダヤ人、スラヴ人、バルト人、ドイツ人が宗教、民族を超えて調和した自由な時代であったが、不幸にしてドイツ人の裏切りとロシアという外敵によって崩れた』と主張していた。
実際のところはかつての"黄金の自由"の体制下ではいわゆる再版農奴制の問題や宗教の自由についても少しづつカトリック優位の政策がとられていたこと、リトアニアとポーランドは決して平等ではなかったこと、そしてなによりも"黄金の自由"によって自由を享受していた側の貴族たちの裏切りによる崩壊など、多くの点で問題が多かったが少なくともポーランド人はかつての"黄金の自由"を真に自由だった時代と信じていたことから、国内の自由化を進めるとなっても特に反発は少なかった。
こうしてかつてのサルマタイ人起源説に基づくサルマティズムを復古させたサルマティズム-リヴァイヴァルがポーランド各地で奨励され、国名もかつてのポーランドリトアニア連邦に倣い、ポーランド連邦共和国と改めるなどの政策が続く中で自由主義経済に注目が集まり、その中でミーゼスの理論にも光が当たったのだった。
元オーストリア人ということは問題視されたが、それ以上にポーランドでは独立に伴って処刑されたものの社会主義ドイツの戦時経済相を務めていたことから"民族の裏切り者"とされたミハウ-カレツキが編み出した統制経済モデルに対する反発から、ミーゼス流の自由経済モデルは徐々に受け入れられ、戦後の世界では異質なポーランドの政策はポーランドを象徴するヴィスワ川からヴィスワ型資本主義と呼ばれることになる。




