第296話 亡命者と帰還者
1941年6月13日 ドイツ帝国 ベルリン テンペルホーフ練兵場
もともとはテンプル騎士団の所有であったと伝わるこの土地は、1720年より長く練兵場として使われていた。一時は空港を建てる計画もあったが、革命時の内戦の影響でベルリン全体で区画整理が行われた影響でヨハニスタール飛行場が拡張されたためそのまま練兵場として使われていたが、現在では仮設の兵舎などが建てられて、ポーランド軍の駐屯施設として利用されていた。
厳密にいえば大協商の構成国ではなく、共同交戦国という扱いのポーランド軍は当初ドイツ本土への進駐に関しては意見が分かれていたのだが、大協商の東部での主力であるロシア軍はその兵力の多くをボヘミア地域へと移動させていたため、新たに送られてくるロシア軍の到着までの間としてポーランド軍の駐留が許されていた。駐留といってもただ占領に参加するだけではなく、ドイツの"非社会主義化のための行動"も大事な任務といえた。これは高名な社会主義者や社会主義体制下で戦争犯罪を犯した者たちをとらえ、また"社会主義的思想"に関するものの処分なども含まれていた。
ここテンペルホーフには数日前に"非社会主義化のための行動"に基づいて連行された1人のドイツ人がいた。名をハンス-ウルリッヒ-ゲーリングといった。
父親であるヘルマン-ゲーリングが空軍司令として無差別爆撃の指令という"戦争犯罪"の実行によって逮捕、起訴されていたが、義理の息子ではあっても一介の操縦士に過ぎなかったはずのハンスまでも逮捕されたのは異例のことだった。しかも、多くの囚人が暮らす雑居房ではなく独房があてがわれるのも異例だった。そしてすべてが異例ずくめのハンスの独房にこの日、とある来客が訪れていた。扉が開くと、そこには1人の男が立っていた。男は警備兵に下がるように命じると、ゆっくりとこちらに向かって歩んできた。
「…何のつもりだ」
「ずいぶん逞しくなったのだな。ハンス君」
鎖で継がれていなければ今すぐ飛び掛かって殺してやろうと考えてハンスに対して男は柔和な口調の流暢なドイツ語で話しかけてきた。
「初めて会った時からもう20年だ…懐かしいなぁ」
「ロコソフスキ…おじさん…」
そこまで話していてようやくハンスはその正体に気が付いた。入ってきた男はコンスタンティ-ロコソフスキ、ポーランド軍最年少元帥であり、戦中には臨時政府の首班として活動していたが今回の進駐にあたって辞任して駐独ポーランド軍の司令に就任していた男だった。ロコソフスキはゲーリングともハンスとも面識がありドイツ本土を訪れた際にはよく交流していた間柄だった。ハンスはロコソフスキをおじさんと慕っていたが、ロコソフスキからすればハンスの実の両親を間接的に殺してしまったことへの贖罪だったのかもしれなかった。
「ハンス、私は君をここから逃がすつもりで来た。もちろん君の婚約者も一緒にだ。だが、一つだけ条件がある。それはドイツ本土に絶対に帰還しないことだ。それさえ守られるなら…」
「どうして、なんで助けるんだ。今ここで俺を助けるぐらいなら、なんで、父さんを見殺しに…」
「ハンス、私がここに来たのは、君のお父さんの意思だ。せめて君と君の婚約者だけは助けたいというね。正直、私も君でなければ助けようとは思わなかっただろう。ルブリンは瓦礫の山だし、ワルシャワもクラクフもラドムもみな汚染された。だがそれでも君だけは見捨てられなかった…」
「……父さん、おじさん」
(まぁ、もっともそれだけではないのがな)
出会った時と同じようにすすり泣き始めたハンスを見ながら、ロコソフスキは思った。
ゲーリングからロコソフスキへハンスを助けるように懇願する手紙が届いてすぐに、大協商の主要構成国であるイギリスから接触が来た。どこで知ったかイギリス側は手紙の存在どころか内容まで知っていた。ハンスの救出は断念するしかないと考えたロコソフスキだったが、イギリス側の意向は意外なものだった。
ハンスの脱出を容認する代わりにドイツ本土に絶対に帰還させないこと、これがイギリス側の条件だった。ゲーリングとロンメルの内戦時から現在に至るまでの功績を考えるとこれを無罪とすることは難しいばかりかそれぞれの指揮下にあった部隊(ゲーリングの場合は空軍という組織全体)が戦争犯罪とされる文化財の損壊などを起こしていたこともあり、最終的にルーデンドルフ体制から続いた独裁体制に終止符を打ったのが2人であるとしても、これを無罪とすることは大協商の正義がゆるさないからだった。
しかし、今でこそ大協商優位の降伏文書に調印した"売国奴"とドイツ中で言われているゲーリングとロンメルだが、その評価が覆ったとき血のつながりはないとはいえ息子であるハンスが旗振り役となる可能性はないとは言えず、ドイツ国内にとどまらせるのは危険ではないかという懸念があった。こうして、イギリスとロコソフスキの思惑は一致し、ハンスはイギリス諜報部の庇護のもと国外へと移送されることになった。
ハンスがドイツを去ってイギリス領ヘルゴラント島に向かったのはその翌日のことだった。
1941年7月1日 ドイツ帝国 リューベック
リューベックはポメラニアやシュレースヴィヒ=ホルシュタインなどの諸地域が割譲される中でバルト海側に残こされた貴重なドイツの港だった。現在ではイギリスの管理下にあるが、自国による管理を望むポーランド共和国やロシア帝国、フランス共和国などの反対にもかかわらず占領の終了後に返還されることが決まっていたのだった。
そんな中でイギリス兵とは異なる一団がリューベックに上陸していた。自動車などはイギリス製であったため、車列だけ見ればイギリス軍そのものだったし、軍服の色もイギリスと同じカーキ色だったが、兵士のヘルメットはもはや革命前の世代しか覚えていないであろうピッケルハウベであり、士官たちはつばの右側をボタンで止めた独特の帽子をかぶっていた。そして、その帽子には黒、白、赤の3色の円形章が縫い付けられていた。一団の正体はドイツ帝国南西アフリカ植民地軍だった。
「ここが、われらの故郷か」
「君も私も生まれはこっちじゃないがな」
まったく実感がなさそうにカール-ベルガーが装甲車の中から警戒しながら言うと、同乗していたアルトゥール-マティアス-フレプスがやや皮肉気に答えた。ベルガーはバナト地方生まれのシュヴァーベン系ドイツ人であり、フレプスはトランシルバニア生まれのオーストリア系ドイツ人だった。
オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、バナトとトランシルバニアの両地方がともにルーマニア王国に併合されると2人は、ルーマニア政府の政策によって家族共々追放された。追放先は南西アフリカ植民地、この地球で最後となったドイツ帝国の領土だった。2人はオーストリア=ハンガリー帝国陸軍での従軍経験があったため、すぐさま南西アフリカ植民地軍に入隊させられた。それから、2人は多くのドイツ兵と同じように社会主義ドイツの打倒と"祖国"への帰還という目的のために訓練に励んだ。もっとも、大戦中は大協商内部での不信感と反独感情から、南米戦線程度にしか投入されることはなく、帝国の本土への帰還が大協商全体の方針として認められても、ヨーロッパでの戦いにおいてはついにその参陣が許されることがなかったのだが。
「そういえば、シュトゥットガルトでヘーゲルとかいう哲学者の家が爆破されたらしいぞ」
「へぇ…ところで今日の糧食は何だったかな…」
「おいおい、もうちょっと興味持てよベルガー。一応、シュヴァーベン人なんだろう?」
「先祖の話だよ。軍人として帝国と皇帝陛下への忠節には変わりはないが、ドイツのどこそこでどうこうといわれてもな。第一、社会主義の遺物が減るのはいいことじゃないか」
故郷を追われて20年になる者たちの中にはドイツ本土を知らない者たちも多かったし、それに加えてベルガーやフレプスのように本来ならばドイツ系住民ではあってもドイツ帝国人ではないものまで抱え込んだ結果、国家の統合のためには皇帝と帝国、そして社会主義者への復讐を強調するほかなかったため、ドイツ帝国の在り方はかつてとは大きく変わっていた。リープクネヒトやルーデンドルフが1つのドイツを唱えてもなお為しえなかった各地方色の抹殺と"ドイツ"という1つの存在への統合を皮肉にも亡命国家であるドイツ帝国が実現していたのだった。
だからこそ、ベルガーは哲学者ゲオルク-ヴィルヘルム-フリードリヒ-ヘーゲルの家が社会主義の祖であるカール-マルクスへの思想的影響を理由に"非社会主義化のための行動"の一環として爆破されたとしても、何の感慨も抱かなかったのだった。
20年ぶりに本土に帰還を果たしたドイツ帝国だったが、本土の住民との溝は南西アフリカとドイツ本土の距離以上にとても大きいものだった。




