第295話 降伏文書調印
1941年5月1日、いまだに正式な降伏が決まらぬ中で大協商に属する各国軍は占領地域の境界を越え、"ドイツ各地での武装解除と非社会主義化のための行動"を開始した。
これに対して、ドイツ自由社会主義共和国臨時政府は何もすることができなかった。各地の主要都市の上空を爆撃機の群れが交代で舞い、北部の沿岸地帯にはそれまでのイギリス海軍やフランス海軍に加えて地中海にいるはずのイタリア海軍や遥か極東より訪れた日本海軍の戦艦たちまでもが姿を見せており、ドイツ軍の報復を阻止するには十分な圧力として機能していた。ドイツ側にできることは全軍に武装解除を命じることだけだった。
そしてその日のうちに各国軍の中で最もベルリンに接近していたイギリス軍がベルリンへの入城を果たした。これに対してもドイツ側は特に抵抗するそぶりを見せなかった。
そして、それからしばらくした5月9日、人民軍臨時総司令部が置かれていたシュパンダウ城にて交渉が始まった。といっても実態は交渉ではなく大協商がただ要求を突き付けてきたにすぎなかったのだが。
この中で大協商が提示した条件の中にはドイツ側が納得しかねるものもあった。例えば非社会主義化が終わるまでの大協商による一定期間のドイツ全土の占領と"必要な行動"の実施、大戦中には中立国であったはずのデンマーク王国への"不当に領土化された"シュレーズヴィヒ=ホルシュタイン全域の返還、賠償の担保としてドイツ全土の鉄道ならびに銀行、船舶、工業設備を大協商管理委員会の管理下に置くこと、ドイツ人によるすべての飛行物体の運用及び保有の禁止、占領領土からの必要に応じたドイツ人の"送還"などがそれであり、また事前に予測されていた範囲を超えて"裏切者"であるポーランド人に現在イギリス軍が占領しているシュトラールズンドを含むポンメルン全域を割譲するなどはもってのほかだった。これは、ロシア帝国が同君連合であるボヘミア王冠領の一部として割譲を求めていたシュレージェンには多くのポーランド人も居住しており、ロシア人は大戦中での恨みからポーランド人を追放しようとし、もちろんポーランド側は反発した。その結果、妥協としてシュレージェンからのポーランド人の追放とシュレージェンの代替地としてのポメラニアの引き渡しが決まったのだった。
これらの決定は戦後本土に帰還するはずであった亡命ドイツ帝国政府にも伝えられていたが、皇帝であるヴィルヘルム4世は当初こそ憤りを隠さなかったが、最終的には割譲を戦時賠償の物納として判断するとの回答に納得せざるを得なかった。日記にはドイツが敗者であり、人類の敵である以上、その贖罪が長く苦しいものになることは明白であり、割譲によって少しでもその苦しみが減るのであればと記述しており、必死に納得させていたことがうかがえる。
むしろ納得しなかったのは"まだ余力がある"と考えていた本土の人間たちであり、急進派たちは"売国奴"であるエルヴィン-ヨハネス-オイゲン-ロンメルとヘルマン-ゲーリングを襲撃した。もちろん、ロンメルやゲーリングの側もそうしたことは予期しており襲撃を防ぐことには成功したが、このことはドイツの反発が強いことを示していた。しかし、この襲撃によって大協商は態度を軟化させることはなくむしろ硬化させた。大協商は自らの要求を苛烈であると再考するのではなく、臨時政府の統治能力に疑問を抱いたのだった。結果としてドイツ側はこれまでの要求のすべてを飲まざるを得なくなった。
一方で、事前に予測されながらも要求されなかった条件もわずかながらあった。
戦後におけるアレマン地域の分離だった。アレマン地域は高度な自治を保障するという形ながらもどうにかドイツにとどまることが決まったのだった。
これはアレマン地域の扱いに関するスイス内部での協議の結果だった。スイスでは元大統領であったことから戦中に亡命政府の指導者として活躍したマルセル-ピレ-ゴラスが友人であったヤコブ-シャイナーの提言を受けてアレマン地域の併合を模索していたが、亡命スイス軍司令官として戦いの指揮を執っていたアンリ-ギザンは否定的だった。
ギザンによればスイスは国土の多くが荒廃させられており、その復興のことを考えればアレマン地域を抱え込む余裕などない、というものだった。しかし、理屈の上では正論であってもドイツに対する復讐心は強くなかなか結論は出ないでいたが、最終的にイギリス、そして意外なことにフランスからの勧告により結局、アレマン地域はドイツにとどまることになった。
勢力均衡を望むイギリスはともかくフランスが同調したのにはわけがあった。
それはフランス国内のアルザス地域もまたアレマン人居住地域だったからだった。パリ、そして、トゥールへの攻撃によって、地方への機能分散が叫ばれるようになったがそれに対する障害の1つが地方における分離主義だった。
ドイツにおけるアレマン分離主義の容認がアルザス地域へと波及すれば、やがて、フランス国内の諸地域、例えばシャルル-ジュール-ジョセフ-ド-ゴールのような汎ケルト主義者の影響を受けたブルターニュ、アルビジョワ十字軍以降フランスに組み込まれながらもヴァレリー-ラルボーのような文化人たちが中心となって自治、あるいは独立を求め続けているオクシタニアなどの独立運動に火をつけかねないと危惧したのだった。こうして、フランスがフランスであり続けるためにスイスの復讐は否定されることになった。
そして、6月12日、ドイツ側の条件受託とともに調印が行なわれ、シュパンダウ城の旗竿からはドイツ自由社会主義共和国旗が降ろされて黒、白、赤の3色旗が掲げられた。ここからドイツの長い戦後が始まることになるのだった。




