第293話 第2次世界大戦<20>
1941年2月20日、エーリヒ-ルーデンドルフの死が公表され、合わせてエルンスト-テールマン人民法廷裁判長兼秘密警察長官が、人民評議会議長と人民軍総司令官を兼務することが発表され、また、上陸したイギリス軍を撃退するために老若男女を問わず総てを兵士として動員することが同時に発表された。
テールマンがこれほどまでに迅速に権力を掌握できたのはテールマンの持っていた権力がもともと大きなものであったこともあったが、一番の理由はルーデンドルフの死とともにドイツの崩壊を見越した高官たちが次々とベルリンを去っていったことも大きかった。テールマンとしては自身に歯向かう者たちや、裏切り者は容赦なく処刑するつもりであったが、何もせずに隠遁するのであれば放っておいて問題ないと考えていた。なぜならば、そのようなことに秘密警察の人員を割けないほどにドイツは混乱していたからだった。
掌握できたといってもそれは上層のみであって、薄々ドイツの敗色が濃厚であることを感じていた大多数の国民や兵士たちからすれば『革命の英雄』であるルーデンドルフの死によって、ドイツの敗北は避けられなくなったと思い各地で大協商への降伏を望むものが増えており、それらの取り締まりに人員を割かなければいけなくなっていた。かつてのルーデンドルフの粛清が行われた際には機能していた密告者による情報網も、人々が体制を見限り始めると次第に機能しなくなっていった。
さらに前線においても、新規動員兵(という名の軍服を着ただけの武装した市民集団)を"効率的"に運用するための督戦隊としての行動を人民軍が拒否したため、それらも秘密警察からの人員が充てられた。12歳の子供や60歳の老人に銃や即席爆薬を持たせて突撃させるための監視など軍人の仕事ではないというのが主な理由だった。これらにより、もはや、秘密警察はかつてのような効率的な行動をすることができなくなっていた。
隠遁した高官らもこうしたことは見越しており、特に人民英雄であるエルヴィン-ヨハネス-オイゲン-ロンメルとヘルマン-ゲーリングはロンメルの一人娘であるゲルトルートとゲーリングの養子でありゲルトルートより3歳年下のハンスとの婚約が決まっていたことから、"個人的な"連絡を取り合っていた。無論テールマンも流石に革命の英雄2人の繋がりに関しては警戒したが同時にこれ以上の英雄の喪失による士気の低下を抑えるべく懐柔を試みたが、敵である大協商の攻勢はテールマンからそうした余裕を奪うことになる。
イギリス軍の上陸作戦に衝撃を受けたのはドイツだけではなく、同盟国であるはずのフランス共和国やロシア帝国も同様であり、それぞれの指導者は戦果を求めて自軍にさらなる進軍を命じた。フランス共和国およびその同盟国である大日本帝国、開戦以来ドイツと戦い続けているベルギー王国、パリの戦いにこそ間に合わなかったが大西洋を越えて到着したブラジル合衆国、パタゴニア執政府、チリ共和国の各国軍が西からラインラントに侵入し、東からもロシア軍およびポーランド共和国軍が進撃しており、中でもロシア軍はスラヴ民族であるチェコおよびスロバキアの解放を目的としたスコベレフ作戦を発動した。
スコベレフ作戦は中央アジアの征服や露土戦争で活躍し、熱烈なパンスラヴ主義者で反ドイツ的主張を繰り返したがために左遷されたミハイル-ドミトリーエヴィチ-スコベレフの名に由来しており、南からオーストリアを解放しようと北上するイタリア王国軍や英領インド帝国軍を主力とする大協商のバルカン作戦部隊の存在もあり、ドイツ軍は南及東方向の圧迫に耐えられなくなっていった。そしてそれを見たオーストリアやチェコでは蜂起が頻発した。
ドイツ人にできることは民間人ならば比較的安全と思われたデンマーク王国などの北欧各国に逃れるか、軍人ならば大協商の中でもまだドイツ人に対して好意的とみられたイギリス軍に対して降伏することに希望をつなぐ程度だった。北欧各国、中でも『北方人種の家』を半ば国策としていたスウェーデン王国とノルウェー王国はこうしたドイツ人に対して"人道的観点"から寛大な措置を要請した。
なお、同時期にドイツの一部であったバルト海諸地域からも多くの難民が生じ、なかでもポーランドに組み込まれることが確定していたリトアニアからは多くが海を渡って両国に逃れていたが、非北方人種であることを理由に追放された人間も少なくなかった。
ともかく、こうした状況にあってドイツ軍にできることは少なく、せいぜい、ワルシャワ、ラドム、クラクフ、プラハといった重要都市に対して化学兵器を大規模使用した焦土作戦を行なった程度だった。
こうして徐々に追い詰められたことにより、テールマンは従来の方針を改めての粛清を決意したが、その前にロンメル、ゲーリングの両名が動き、人民軍と人民空軍によるクーデターによって3月21日テールマンを処刑して新政権を樹立したが、テールマンはその動きを予見して自身の死とともに最終作戦であるドイツ各地の焦土化を目的とするネロ作戦を発動するように指示を出しており、これに従い秘密警察によって掌握されていたプロイセン自由州(これは革命後に併合されていたメクレンブルク、オルデンブルグといった諸地域やハンブルグなどの諸都市も含む)やザクセン=テューリンゲン自由州のうちのザクセン地域などでは特に大規模な破壊工作が行われた。特にラインラントの工業地帯は徹底的に破壊され、皮肉にもフランス軍を主力とする大協商軍に制圧されたライン川左岸では比較的軽微な損害であったのに対して、ドイツに残ったライン川右岸は多くが廃墟となった。
しかし、こうした行動はドイツ人の中でさえ反発するものが多く多くの市民や軍部隊が秘密警察を阻止するために動き、各地で戦闘が勃発した。これらの動きに際してベルリンを制圧したロンメル、ゲーリングは武装市民および軍に対し、戦闘を停止するとともに秘密警察の人間に関しても上官の命令に従ったのみであり寛大な処罰を約束するとの声明を発表したが双方から無視された。
こうしたドイツ国内の動きと並行して、ロンメルとゲーリングたちは大協商との交渉を試みたが、結果は芳しくなかった。大協商としてはドイツ帝国の帰還こそ既定路線だったが、それ以外については各国の思惑が入り乱れた結果として決まっていなかったためだった。領土に関してはどうなるのか、天文学的になるであろう賠償についてはどうするか、ドイツ本土への進軍の道筋が見え、そういったことを検討しようとした矢先にドイツ国内の情勢があまりに大きく変わってしまったからだった。
そのため、講和が打診されたからと言って、休戦や停戦がなされたわけでもなく、ドイツ軍に対する大協商各国軍の攻撃は続き、また、ドイツ軍の側も市民や施設の防衛のために戦闘を継続していた。
ようやく、3月31日になってから一時的な停戦の合意がなされ、翌日にはBBCをはじめとする報道機関が、
『これからお話することは全てうそ偽りない真実であります』
と、前置きしたうえでドイツとの停戦を発表した。だが、それでも放送を聞いた多くの人々は半信半疑だった。報道された日がエイプリルフールで有名な4月1日であったことも理由の1つだったが、それ以上に長い間続いた戦争という日常に慣れきっていたからだった。
史実では私生児という扱いだったゲルトルートが娘になっているのは、ダンツィヒの士官学校に通っていないので史実の正妻であるルーツィエと出会うことがなかったためです。




