第285話 第2次世界大戦〈18〉
ラインの守り作戦によってパリは1870年の独仏戦争以来70年ぶりに戦場となっていた。
ドイツ軍は市内に突入しシテ島とその周辺を除く市街地を制圧し、投入したドイツ軍部隊を包囲しようとする大協商各国軍はリヨンの轍を踏むまいと包囲を阻止しようとする後続のドイツ軍部隊と激戦を繰り広げていた。リヨンでの戦訓は市街でのドイツ軍の戦いにも影響を与えており、特にパリの地下鉄網は反撃のために利用される恐れがあるとして民間人の避難場所であるか否かにかかわらず、掃討命令が出されていたため多くの市民が犠牲になることとなった。
地上でも一般の市街地はもちろん公共施設にも多くの被害が出ていた。すでに劣勢であるにもかかわらずフランスに対する完全勝利という目標を捨てていなかったエーリヒ-ルーデンドルフは戦後に有用な統治機構を温存するべく政府諸機関への攻撃を控えるよう命じる一方で、その他の施設、すなわち退廃的な芸術を収めただけの美術館や前時代的な栄光の象徴である記念碑には何ら価値を見出していなかったため、フランス政府とともにトゥールへと疎開しきれなかった美術品、例えばメデューズ号の筏やサモトラケのニケ等の諸作品、エトワール凱旋門やエッフェル塔といった建築物が焼失または破壊されることになる。
こうしてパリに死体の山が築かれて行く一方で、トゥールに逃れたフランス政府が何の手も打たなかったわけではなかった。フランス政府はパリを奪い返すために各地から戦力を引き抜く一方で、大協商構成各国のみならずそれ以外の国々に対しても外交戦を仕掛けた。
これにより、亡命オーストリア-ハンガリー政府が秘密裏に参戦することになった。この構想自体は以前よりあったものの、かつてのオーストリア-ハンガリー帝国の復活を恐れるイタリア王国の反対により、バルカン半島よりイタリアを北上する大協商軍との合流により、旧オーストリアを解放するという作戦は実行に移されていなかったが、今回、フランスが仲介に入る形で亡命オーストリア-ハンガリー政府の参戦が認められた。
戦力的には大したことはなかったが古き帝国の帰還はドイツ国内、特にかつてのオーストリア-ハンガリー領を大きく動揺させた。一方でそうした動揺は中立国であるハンガリー民主共和国やドイツ国内の自治州ながら激しい弾圧と搾取から大協商に好意的なチェヒ-モラヴァ自由州で活動していたチェコ人の反ドイツ地下組織などでもみられたが、ハンガリーに対してはオレンジ-インターに属するギリシア=トルコ社会主義連合の仲介によって、戦後の"特別な地位"を約束し、チェヒ-モラヴァ自由州の反ドイツ地下組織には新スラブ主義に基づくロシアとの連合を提案した。
新スラブ主義とは汎スラヴ主義の一種であり、正教国家であるロシア帝国の下で全スラブ人が一つの強力な国家としてまとまるべきと考える従来の汎スラヴ主義に対して、宗教より民族を重視し、カトリックやルター派であってもスラヴ人はまとまるべきだと考え、またその体制も単一の帝国から連邦制を想定した緩やかなものになるなど、より各国で受け入れやすいようなものに変化したものだった。
かつてのボヘミアではカレル-クラマーシュが中心となって活動しており、クラマーシュはバルカン戦争勃発後には自らの発案したスラヴ帝国構想を当時のロシア帝国政府に対し実現するように訴えたが拒絶され、その後ロシアが混乱状態になるとパリへと逃れ、そこで1937年に病没していたが、クラマーシュはその死の前にスラヴ帝国構想を再び今度はフランス政府に対し提案していたのだが、ロシアの影響力拡大を嫌って拒絶された。しかし、ドイツ軍によるパリ攻撃という非常事態はクラマーシュの構想を再びよみがえらせることにつながった。
これに対し共同交戦国であるポーランドや大協商の一員であり、ロシアを経済的支配下に置いていた事からその経済的自立を恐れるイギリスからは反対の声が上がったが、フランス政府はポーランドの声については無視する一方で、イギリスに関しては長らくイギリスが主張していたがフランス政府が拒絶し続けていた南西アフリカ植民地の亡命ドイツ帝国政府の存在とその本土への帰還の権利について認めることで合意した。
また、名目上は大協商の一員であったものの、アメリカとの休戦後は特に戦闘に参加していなかった南米各国のうち資源は豊富であっても工業化が進んでいなかったチリ共和国とパタゴニア執政府に対しては工業化への後押しを、最大の国家であったブラジル合衆国に関しては19世紀以来、漁業権や国境線をめぐって対立していたギアナ植民地問題の解決と南米大陸におけるブラジルの優越的地位の承認を約束することで兵力派遣を確約された。
そして、フランス政府が最も期待したのが同盟国である大日本帝国であり、欧州派遣軍のさらなる増派を願った。これに対し当初日本側には否定的な見方が強く、イタリアへの派遣のみで十分であるとの意見が多かったが、イタリア戦線でドイツ軍司令官であったヨーゼフ-ディートリッヒが日本兵を含む有色人種の兵士を捕虜とする必要はなく処刑するようにと命じていたことが明るみになると、より積極的な派兵をの望む声が上がった。もちろん最終的に派兵を決断したのは国民感情の盛り上がりだけではなく、日本人移民枠の更なる拡大や占領下にあるフィリピンの軍事施設の使用権、仏領北マリアナ諸島の正式譲渡などの見返りがあったからだった。
こうして、パリ攻撃はフランスのみならず各国に大きな影響を与えることになったのだった。




