第284話 第2次世界大戦〈17〉
1940年10月25日に始まったドイツ軍の進撃に頭脳を失った大協商は対応することができず、前線の突破を許ししてしまった。フランス政府は政府機能のパリからトゥールへの移転を迅速に行なう一方で、ドイツ軍の進撃を押しとどめるための決戦を望んだ。それに対しフランス以外の各国軍はマルヌ川以東の一時的放棄を提案するも、フランス軍というより政府は少しでも戦場をパリから遠くに置くことにこだわり、さらなる混乱を招き、結果、決戦はフランス軍主体で行なわれることになった。
決戦場に選ばれた街の名はシャロン-シュル-マルヌ。この街は現在の名よりも古代にローマ人が名付けた名のほうがより広く知られているかもしれない場所だった。ローマ時代の名はカタラウヌム。274年にはローマの支配より脱しようとしたガリア帝国が最後の決戦を行ない、第一次カタラウヌムの戦いで敗れた地であり、そして451年にアッティラ率いるフン族と西ローマ帝国とゲルマン諸部族連合が激突した第二次カタラウヌムの戦いが起こった場所でもあった。
こうして、数々の蛮行から現代のフン族と称されるようになったドイツ軍を相手にシャロン-シュル-マルヌに動員されたフランス軍の中には阮太學が中心となって結成されたヴェトナム国民党によって集められた志願兵たちから構成されるトンキン義勇部隊の姿もあった。
もともと、第一次世界大戦を戦っている最中の新黒旗軍の乱により裏切り者の烙印を押されたヴェトナム人(キン族)はフランス植民地政府より信頼されず、直轄植民地であったトンキンとコーチシナではヨーロッパや日本からの移民あるいはフランスの植民地統治に忠実と考えられた少数民族がを中心に統治が行なわれ、そうした環境では当然ヴェトナム人(キン族)の地位向上など望めるはずもなかった。
だが、第二次世界大戦初期においてアメリカ合衆国によって一時大協商が劣勢に追い込まれたことから流れが変わった。植民地政府がそれまでの方針を転換し、ヴェトナム人(キン族)への上級職の開放など、積極的に登用する方針を打ち出したのだった。
これは第一次世界大戦終戦以来続いていた非ヴェトナム化政策を廃止してでも仏領インドシナ植民地を守ろうとした植民地政府の苦渋の決断だった。これに対し、かねてよりヴェトナム人(キン族)の地位向上を訴えてきたヴェトナム国民党内部では懐疑的な声も多かったが、そのころになるとアメリカが占領した大清帝国台湾府において行なっていた占領統治の実態が広く知れ渡ったことにより、アメリカに対する期待も消失していたため、植民地政府への協力の中で自治を勝ち取る方針へと変化しており、こうして集められたトンキン義勇部隊だったが、訓練完了時にはすでにアメリカとの講和が成っていたため、ヨーロッパへと投入されていたのだった。
そのほかにも、セネガルや北アフリカの保護領、あるいはアルジェリアから集められた兵士たちが参加しており、その多様な人々が団結して立ち向かう様子はまさにフン族と戦った第二次カタラウヌムの戦いを思い起こさせるものだった。これを聞いた元フェビアン協会員で開戦後にドイツに亡命していたイギリス出身の作家であり、対イギリスプロパガンダの作成などにかかわっていたハーバード-ジョージ-ウェルズは、
『仮にフランス軍が敗北してもかつてのガリア帝国のように自治を失うのみであり、その後はテトリクス1世がアウレリウス帝の下でその才を生かしたように、フランス人もまた人類の進歩のためにその才を生かすことになる。フランスの次はかつての我が祖国だろう』
と日記に書き残しているが、ドイツの指導者であるエーリヒ-ルーデンドルフはアッティラと同じように敵に容赦をすることはなかった。
ラインの守り作戦において懸念されたのがかつてのリヨンの戦いのような都市部を拠点とした抵抗活動だったが、それに対してドイツ軍はミラノ生まれのオーストリア人技術者マリオ-ジッパーマイヤーが発明した新型爆弾を投入することで解決した。この新型爆弾は粉炭と液体酸素を利用して衝撃波と高温を発生させるものであり、またその際の燃焼により酸素そのものを奪うことから市街地に隠れた敵を相当するのにはうってつけと考えられていた。
こうしてシャロン-シュル-マルヌは新型爆弾による攻撃により、軍人、民間人を問わず多大な犠牲を出した。
さらに続くドイツ軍機甲部隊もまた強敵だった。
フランス軍は航空支援を要請し、それに答えたイギリス軍が対地攻撃機ポールトンポール-デファイアントをもっていつものように支援攻撃を開始したのだが、それまでとは違い新型対空戦車に搭載された55mm機関砲によって絡み取られた。この新型対空戦車は随伴する射撃統制用対空電波探知機搭載の車両と連携することが前提となった新しい車両であり、それまでの車両とは比べ物にならないほどの命中精度で対地攻撃機をたたき落としていった。さらに、その砲火を潜り抜けた機体も画期的な新兵器である空飛ぶ拳と名付けられた歩兵携行型対空噴進弾に撃墜された。
さらに、戦車部隊の主力もドイツ人民軍が最後に量産した戦車である5号戦車が投入されていた。
ヨシフ-ヤコブレヴィチ-コーチン技師最後の傑作と呼ばれるそれは砲こそ、4号と共通の128mmだが大協商陣営、ドイツ双方の軍人たちに未来からきたと称されるほど被弾経始に特化した形状であり、開戦以来ドイツ軍が悩ませ続けていたフランス軍の装備する自走あるいは牽引式対戦車砲から放たれる装弾筒付き徹甲弾への究極の回答だった。さらに続く歩兵部隊は装甲化された兵員輸送車によって輸送されているなど、従来のドイツ軍にはない新装備が多数含まれていた。
第三次カタラウヌムの戦いとも称されるシャロン-シュル-マルヌの戦いはフランス側の敗北に終わり、さらにこの敗報が大協商内部での混乱をさらに大きなものとしたためマルヌ川河畔への展開すら阻害された結果、ドイツ軍のパリ突入とその後のパリ攻防戦が始まるきっかけとなった。




