第282話 第2次世界大戦<16>
1940年9月1日のポーランド独立宣言とその後すぐに行なわれた報復攻撃によって、ポーランド各地は壊滅状態に陥った。ドイツ軍は各地で化学攻撃を仕掛けることにより、ポーランドの都市部を中心に汚染された土地を増やしていったが、それでもポーランド人の抗戦の意志を潰えることは決してなく、9月7日には、ルブリン郊外の都市ヘウムでポーランド軍最年少元帥であるコンスタンティ-ロコソフスキ元帥を首班とする臨時政府を結成し、残存部隊のすべてを指揮下に置いたことを宣言した。
だが、戦局は厳しく、臨時政府は大協商に対し軍の派遣を要請するがそれは苦渋の決断であった。なぜならば、大協商の東部での数的主力はロシア帝国軍だったからだった。ポーランド人はポーランド分割から、第一次世界大戦までの間にロシア人によって行われていたことを忘れていなかったし、ロシア人はそれらへの"報復"として講和までの間にロシア各地で行なわれた破壊と略奪の数々に対する憤りから従軍していたものも少なくなかったためロシア軍部隊によるポーランド軍部隊に対する"誤射"が多発したし、その逆の事例も同じぐらい多かった。
一方、ポーランド臨時政府は西においても攻勢の実施を要請した。
当初は時期尚早であるとして反対意見が多かったが、ポーランドのみならずロシアまでもが賛成に回ると幾たびかの検討を経て、北イタリアの都市リミニへの上陸作戦であるメイルフィストが実行に移されることになり、イタリア半島をイタリア王国軍の激しい抵抗にあいながらも南下していたドイツ軍は反撃のために、急遽北部イタリアへ向かうことを余儀なくされた。
この上陸作戦には大日本帝国陸軍欧州派遣軍がイギリス領インド帝国軍や南アフリカ連邦軍、フランス陸軍とともに参加していた。特に対オスマン戦争で頭角を現し出世した叩きあげの軍人でありながらもインド帝国軍地中海方面軍兼メイルフィスト作戦の総司令官でもあることから堅実な作戦を好むアーサー-アーネスト-パーシヴァルと幼年学校から順調に出世を重ねたエリート軍人ではあるが時折奇襲的な作戦を行ない、ドイツ人や味方である大協商各国軍人から、ハンニバルと呼ばれた欧州派遣軍司令官山下奉文は作戦指導上対立することがありながらも、個人的には親交を深め終生の友となった。
こうした動きに対し、エーリヒ-ルーデンドルフはリミニの死守を命令し、防衛に失敗した際の破壊を厳命したが、防衛の指揮を執っていたイタリア方面軍司令官ヨハネス-アルブレヒト-ブラスコヴィッツが上陸作戦発動後すぐに市長に対して無防備都市宣言を出すように命じたのちに"適切な部隊の再編成"のため撤退したことにより、リミニが戦場となることは避けられた。
その後、ブラスコヴィッツは敵前逃亡を理由に銃殺刑に処され、代わって司令官に就任したヨーゼフ-ディートリッヒは熱狂的なルーデンドルフ支持者であることから、熾烈な攻防戦が各地で行われることになり、ラヴェンナ、フェラーラなど多くの都市が破壊されることになる。このような凄惨な戦闘がイタリア、そしてポーランドで行なわれる中で、それまで一進一退を繰り返してきたフランス及びベルギー、スイス戦線でも動きがあった。
フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、ベルギー、亡命スイス人から構成された自由スイス軍の各国軍による反攻作戦の実施だった。満を持して行なわれたこの反攻作戦に対して、すでに限界に達していたドイツ軍は反撃を実行するも敗退し、ドイツとの国境付近を除くベルギー本土の過半、そしてバーゼルからルガーノまでを結んだ線の西側、つまりスイスの国土の半分を解放した一方で、ドイツ側が主戦線と位置づけ攻勢のために選りすぐりの主力部隊を配置していた旧仏独国境の北部地帯では北フランス方面軍司令官のハインツ-ヴィルヘルム-グデーリアンの巧みな指揮により、特に弱体であったスペイン軍が目標とされ、スペイン軍司令官エミリオ-モラ-ビダルによる稚拙な指揮も相まってドイツ軍による逆襲を許し、その救出のためにフランス軍が転進を余儀なくされたことから、大協商軍が苦戦を強いられ、旧仏独国境の北部にはドイツ軍支配下の巨大な突出部が残存することになる。
これらの敗報に驚愕したルーデンドルフであったが、無謀な反撃ではなく、守勢に回ることを容認した。
だが、その動きを見た大協商は揺さぶりをかけることにした。それがベジタリアン作戦と呼ばれる作戦であり、ドイツ本土各地の農業地帯に特殊弾頭を搭載したブラックロック弾道弾を撃ち込んだ。この特殊弾頭には炭そ菌が封入されており、農業地帯の汚染、特に食肉となる家畜の大量死によってドイツの食糧事情は急速に悪化した。
このベジタリアン作戦に関してはイギリス国内でも反対の意見が多かったが、ドイツ支配下の数々の文化財破壊による反独感情はそれ以上に大きいものがあり実行に移されたという経緯があるが、このべジタリアン作戦の是非については後々まで様々な議論が巻き起こることになった。しかし、多くの議論を巻き起こす作戦であったとしても食糧難から従来から主要な工業地帯であると同時に反独感情も強かったチェヒ-モラヴァ自由州のみならずドイツ本土でも公然と反政府活動が行われるようになるなど間違いなくドイツに対して大きな打撃を与えたのは事実であり、ルーデンドルフも次第に勝利を熱望するようになる。
まず、東ではフリューリングソンネ作戦が実行された。これはドイツ占領下のポーランド各地における焦土作戦によって東からの攻撃を少しでも遅らせようと考えたものであり、また、ドイツ敗北時の最終作戦として考えられていたネロ作戦のデモンストレーションでもあったため春の日差しという作戦名とはかけ離れた苛烈なものだった。
フリューリングソンネ作戦はポーランド人のさらなる反独感情を煽るものだったが、同時に補給が滞ったロシア軍などにより現地調達という名の略奪も行なわれたことから反ロシア感情により、大協商との連携に支障をきたすようになるなどドイツにとっての利益のほうが大きいものだった。
そして、西ではルーデンドルフ自ら立案した反撃作戦であるラインの守り作戦が発動され、旧仏独国境の北部地帯に形成された突出部より攻勢を仕掛け、ドイツ軍はその総力を持ってパリを目指すことになったのだった。




