第274話 第2次世界大戦<13>
1939年11月6日に起こった帝都不祥事件の鎮圧後、新民本主義運動と貴族院議員の中から選ばれた人間によって新内閣を組閣する動きが進む中で、大日本帝国はロシア帝国、大清帝国とともに極東社会主義共和国との講和を模索し始める。
それまで強硬な姿勢を崩すことのなかったロシアと清国だったが、国内では変化が起きていた。
ロシアでは非ロシア人が多くを占める親衛隊と帝国軍の対立が深まり、帝国軍の中にはアレクセイ2世の排除を唱えるものまで出始めていた。もちろんこうした動きはさすがに先鋭化した一部将校のみだったが、それでもそうした動きが出始めたことはアレクセイ2世にとって脅威であり、2正面作戦を続けるよりかは、大協商の支援が望める対独戦へ注力すべきではないか、との友人であり、首相であるアルカディ-ペトロヴィチ-ストルイピンの進言を渋々と受け入れざるをえなかった。
清国の側も似たようなものであり、すでに自国通貨である両の価値は暴落、国内では陸軍を中心とした軍閥化が進行し、イギリスの援助なくしては何もかも立ち行かなくなっており、女真族の故地である満州奪還、そして、聖都曲阜攻撃への報復というお題目は相変わらず叫ばれていたものの、長期的に見て、いや、短期的に見てもそのような作戦を行なう余裕などない以上、講和に傾くのは必至だった。
しかし、一方で、講和に対する反対論も強かったため、両国の講和交渉は難航していた。そこに起こったのが帝都不祥事件だった。
蜂起したのが講和反対を訴える陸海軍人であったことから、それを反乱として鎮圧した昭和天皇の意向を強く受ける新内閣が講和に向けて動き出すのはわかりきったことであり、そうなれば、日本という東洋随一の海軍国家の圧迫を受けることがなくなった極東はアメリカから更なる装備を導入し大攻勢に出るかもしれない、そうした意見が両国において噴出したのも仕方のないことだった。
こうしてそれまでの講和反対論が嘘のように清国、ロシアでは講和論が主流となった。
しかし、それに最も大きな衝撃を受けたのは日本だった。
正直なところ、日本国内、特に国民の間では反乱軍人たちに対して、
『陛下に対し弓を引いた不忠者』
と公には悪し様に言われていたが、実際のところ動機となったアメリカ、極東との講和反対論には賛意を示すものも多く、やむにやまれず蹶起した結果処刑されてしまったが、講和反対論自体は間違っていなかったと、赤穂浪士などに重ねて同情するものも多かった。
こうした事情は政府もよくわかっており、そのため、諸外国に対しては、大協商の戦略に合わせる形での講和交渉を行う姿勢を示しつつ、少しでも有利な妥協点を探っていたところだったのだが、清国とロシアが講和に向けて動き出すと、日本も本腰を入れて講和交渉を開始せざるを得なくなった。ここで講和の機を逃せば、ロシアと清国が相手をしていた極東がすべて日本を目指すことになる、そのような状況であれば、動きを控えているアメリカも共に動くだろうし、そうなれば樺太全島はもとより、北海道までも占領され、最悪は巷で噂されているマッカーサーノートそのままの講和案を受け入れざるを得なくなるという最悪の未来すら想定されていたからだった。
そして、極東そしてアメリカの側もそれぞれ国内の事情から講和の機会を狙っていたため、ここに極東、アメリカ、そして半ば形式的なものではあったがオーストラリア連邦と日本、清国、ロシアとの講和会議が開かれることになった。場所としては仲介を申し出たオランダ王国の東インド植民地の首府バタヴィアが選ばれた。
オランダが仲介を申し出たのは少しでも"中立国"としての自国の存在がいかに価値あるものであるかを示す必要があったからだった。
何しろ、オランダは大戦勃発以降、あまりにも親連携国寄りと思われる動きが多すぎた。"中立国"であることを理由とした、特にドイツ自由社会主義共和国への石油供給、東インドでの清国系、日系移民の収容、加えてドイツ軍占領下のベルギー王国支配地域でのフラマン人優遇政策に対して歓迎するような言動を国内の一部の人間が述べたことなどだった。とにかくそうしたこともあって、大協商では事実上の敵国として扱おうという意見も少なくなかった。
もちろんオランダ側にも言い分はあった。ドイツへの石油供給は純粋な商業活動にすぎず、ドイツだけを優遇していたものではないと主張した。実際、アジア地域においてアメリカが優勢だった中でも仏領インドシナなどに対して燃料供給を行っていたのだが、そうした貢献が顧みられることはなかった。
また、特に問題視されたのが戦前からの移民に対する敵視に基づく移民たちの強制収容であった。オランダ側は理由として1935年12月8日のアメリカによる奇襲攻撃に激怒した日系移民によるアメリカ系企業を標的とした暴動の発生を根拠とし、東インドの中立維持のために必要な行動だったと主張した。この点についてはオランダと日本、清国の間で長きにわたり論争が繰り返されることになる。
最後のフラマン人優遇策については、ドイツが戦前のベルギー国内において、特に言語政策の面でフランス系のワロン人が上位であったことを逆手にとって、オランダ系のフラマン人優遇を行ったことに対して国内の団体が歓迎する旨を伝えただけだったのだが、フラマン人よりの国民感情に配慮して撤回が遅れていた。だが、言ってしまえばそれだけであり、オランダ政府として歓迎の意を伝えるなどということはもちろんなかった。
しかし、何を言ったところで半ば敵国として扱われているのは事実であり、だからこそ講和の仲介を積極的に行なうことで仲介者としてのオランダの存在、その必要性を示そうとしていたのだった。
この講和会議においては、結局、ほぼ現状の固定化に終わったといえる。ロシアはエニセイ川以東を、清国はエニセイ川以東のタンヌ-ウリャンハイとハンガイ山脈以東の外モンゴル、そして万里の長城以北の満州の割譲を余儀なくされた。日本はそれよりいくらかましであったが、アメリカへのグアム島の返還と北緯50度以北の樺太島と幌筵島以北の千島列島の極東への割譲が定められた。
一方で、極東が条件の一つとして持ち出してきていた潜水艦の使用禁止についての協定については日本は議論すら拒むほどだったが、アメリカも日本側が議論をしなかった段階であきらめ、極東に対して速やかに講和を結ぶように働きかけを行なっていた。このアメリカの動きに関して日本、清国、ロシアのみならず仲介国のオランダや同盟国のオーストラリアでさえ不審がったが、極東は特にこのアメリカの態度に不信感を募らせ、清国側から提案された曲阜攻撃への謝罪と賠償を断固拒否した。これを受けて再び議論が紛糾した結果、何とか賠償や兵器の使用禁止に関する議論を先送りすることを条件に休戦協定という形で発行した。
こうして、1939年12月1日のバタヴィア休戦協定をもって、アメリカ、極東、オーストラリアは完全に世界大戦から離脱したのだった。




