第273話 帝都不祥事件
1939年11月6日未明、いまだ戒厳状態であった東京駅において、爆発が起き、それを合図として陸軍部隊の一部が独自の行動をとり始めた。のちに帝都不祥事件と呼ばれる事件の始まりだった。
独自行動をとった部隊は首相官邸を襲撃し、徳川義親総理を銃撃し、さらに各省庁をはじめとする東京の主要施設を占拠せんと図ったが、陸海軍両省および参謀本部は目標から除外されていた。これは陸海軍内部の同調者による穏便な事態の収拾により、同じ日本人同士が撃ち合うことのないようとの配慮からだった。しかし、陸海軍ではこの突然の事態に大きな衝撃を受けており、事態の収拾どころか把握すらも困難な状況が続いていた。唯一まともに動けているのは皮肉にも徳川内閣から半ば見放されていた警視隊のみだった。警視隊は再創設から60年以上たってようやく反乱した陸軍部隊への対処という本来の役割を担うことになったが、陸軍部隊を前に防戦をするのがやっとであった。そんな警視隊の抵抗は突然粉砕された。東京湾に姿を現した練習戦艦扶桑の砲撃により本郷区弥生町の庁舎もろとも吹き飛ばされたのだった。
再創設に伴い建築された庁舎は反乱した陸軍部隊への対処を視野に入れて強化された、要塞と俗称される建築物であったとはいえ、所詮はレンガ造りの建築であり、想定をはるかに上回る12インチ砲の砲撃に耐えることは難しく、奇跡的に生き残ったものもその砲撃の威力に次々と降伏を決意して投降していった。
この砲撃と駐日フランス大使館襲撃を試みた反乱部隊に対しイヴ-ポール-ガストン-ル-プリウール大使の駐在武官時代からの親友であり、たまたま大使館を訪れていた相原四郎軍事参議官が大使館襲撃を避けようとして、反乱部隊に対して好意的な言動をしたことから、反乱には陸軍だけではなく海軍も関与しているのではないか、との疑いが広まった。実際、反乱を起こした将校の多くには、皇族の中でも対米強硬派として知られた伏見宮博恭王による皇族内閣を望む意見も多かった。
一方で政友会および進歩党による再びの政党内閣を望む意見もあり、両政党と反乱部隊の間でなされたやり取りの中では、特に政友会の重鎮である原敬の復帰を望む声もあった。こちらはかつての原内閣時代の選挙対策として行なわれた地方への重点投資によって、生活、教育の向上が行なわれた事を覚えていた青年将校たちが主流だった。
こうした、内部での細かな意見の不一致と警視隊という目の前の敵の文字通りの消滅から、反乱開始からわずか2日で反乱部隊側の足並みに乱れが生じはじめた頃、とある人物が一連の知らせを聞いて激怒していた。
それは昭和天皇だった。
徳川内閣を半ば見限っていたとはいえ、反乱を容認していたわけではなく、戦艦扶桑の砲撃などは言語道断の所業だった。こうして、鎮圧の決意を固めた昭和天皇だったが、そのころの参謀本部では次第に反乱部隊の要求を受け入れるべきという空気が広がっていたため、叱責し、直ちに反乱部隊を鎮圧するようにと厳命した。
しかし、この昭和天皇の意思に反して、あくまでも参謀本部は慎重だった。
東京各地に展開していた部隊のうち、どの部隊が反乱部隊に与しているのかという把握が出来ておらず、無関係の部隊への攻撃や反乱部隊による攪乱行動を許すことにつながりかねないからだった。軍事的に考えれば真っ当な行動だったが、この慎重な対応がさらに昭和天皇をさらに激怒させた。
結果として昭和天皇による近衛師団を率いた御親征という形で、その不満は明確に示された。
大日本帝国始まって以来、時の天皇が自ら戦場に出たことはなく、この知らせに反乱部隊も、参謀本部も大いに混乱したが、陸軍の自動車化が進み、騎兵という兵科が形骸化し、陸軍の馬はせいぜい輜重か砲牽引用の輓馬に限られている中、敢えて白馬に乗り太刀を佩用して陣頭に立つという、前時代的とも思われかねない出で立ちで姿を現した昭和天皇を見て、両者ともに御親征の報が真実であったことを知った。
そしてこれを機に反乱部隊は急速に瓦解した。兵士たちの多くは投降し、将校は自決するか捕縛された。
東京湾に残る扶桑、そして何よりも国内外の部隊に潜伏しているであろう反乱の同調者たちをおとなしくさせるために昭和天皇はその足で東京放送局に足を運び、反乱の失敗を自らの言葉で告げた。
暫くして、戦艦扶桑から戦闘旗が降ろされ、これを持って帝都不祥事件は終幕を迎えたのだった。
事件後すぐに生き残った反乱参加者に加えて直接反乱に与しなかったものの関与していた者や同調者たちを含めた裁判が行なわれた。
この裁判においては同情的な空気は一切なかった。裁判官たちは少しでも甘い処置をして自らも逆賊とされてしまうことを恐れていたし、そうした空気を察した被告人たちも放心状態に近い諦めの中にいた。ただ粛々と裁判は進んでいった。原敬などの裁判以前に服毒自殺を遂げた者についても逆賊として扱われることとなった。また、財界についても資金提供などに関して厳しい視線が送られ各財閥の当主たちが次々と"綱紀粛正″の意思を示した。
こうして、帝都不祥事件は国内においては終幕したが、国外においては特に大使へのテロに続き、大使館までもが襲撃されかかったフランス共和国をはじめとした欧州各国からの批難を招くことになるのだった。




