第272話 第2次世界大戦<12>
1939年10月15日に起こった駐日フランス大使襲撃事件は公用車の運転手こそ車両と運命を共にしたものの大使であったイヴ-ポール-ガストン-ル-プリウールと駐在武官のアントワーヌ-ド-サン-テグジュベリは命に別状はなかった。しかし、同盟国であったフランス共和国大使に対する襲撃は誰もが予想もしなかったことであり、その全容の解明が待たれたが、犯人はその場で自殺しており、結局、警視隊の捜査にもかかわらずただの単独犯によるテロ行為以外の証拠は得られなかった。
徳川内閣はこれを機に右派団体への締め付けを一気に強めた。講和の障害となるであろう右派団体をあらかじめ押さえつけておこうとの思惑によるものだったが、それを見た政党政治家たちは、"革命"を目論む新民本主義運動が遂に正体を現したと言い、右派団体の擁護に回った。
これは政友会、進歩党を問わず、非政党組織である新民本主義運動が政権を握り続けることを快く思っておらず、倒閣に向けて水面下でもともと動いていた所に今回の襲撃事件があり、両党が団結して、倒閣の一歩目として始めたものだった。
徳川内閣にとって悪いことはまだ続いた。
アメリカ陸軍のダグラス-マッカーサーがアメリカ大統領ハーストの承認を得て作成した"講和案"とされる出所不明の文書が出版社などに対して多数送り付けられた。この謎の"講和案"については複数のものがあり、それぞれ内容が異なっていたが、沖縄県と北海道、小笠原諸島などの割譲や賠償金の支払い、そして共和制への移行などの内容は共通していた。もちろん、すぐに内務省によって検閲後発禁とされたが、それでも噂として人々の間で囁かれた。
後のアメリカの歴史家の調査によればこの所謂マ文書またはマッカーサーノートと呼ばれるものについては典型的な偽書であり、そもそもフィリピン戦における敗北ののちにアメリカ国内での予備役の再訓練任務という事実上の左遷状態にあったマッカーサーがそのような進言をしたところで、ハーストが受け入れるはずがない、と結論付けられたが、あまりに多くの人間がこれを事実として長らく受け止めていたために21世紀現在においても、フィクションなどでたびたび登場しており、それがもととなって、マッカーサーノートは事実であったと主張する論説が定期的に表れている。
ともかく、こうした文書などもあって、徳川内閣は打撃を受け、政友会の浜田国松が自身の所有する神都日報において『マ文書が事実であれば、そのようなものを受け入れることは断じて許されない。死んでいった多くの英霊たちに対し、腹を切って詫びるべきだ』と述べた、いわゆる腹切り発言が波紋を広げた。
あくまで、浜田は事実であれば英霊に対して申し訳が立たないという仮定に基づいて述べていたのだが、その前提は無視され『総理は腹を切れ』という発言だけが独り歩きしていくことになる。
全国各地で聖戦完遂を求める国民決起集会なる催しが行われる一方で、国外はそうした国内の騒々しさとは対照的に静かだった。アメリカ軍は休戦協定以降動きを控えており、地上戦を戦う極東社会主義共和国も、アメリカのそうした消極的な姿勢もあって、ロシア帝国への警戒を第一としており、少しずつ前線から兵力を引き抜いていった。帝国陸海軍は樺太、千島においては奪還に向けた攻勢を強める一方、マリアナ方面においてはサイパン島ガラパンに連合艦隊旗艦である土佐を前進させ、アメリカに対し一歩も引かぬという決意を示した。
奇妙な小康状態が続く中、国内では政友会、進歩党と新民本主義運動との間で妥協点の探り合いが続いていた。しかし、反対運動が日に日に盛り上がっていることを知っており、要求を上乗せしていく政党側となんとか抑え込みたい新民本主義運動の側では話がまとまることはなく、交渉は決裂してしまう。だが、この交渉決裂によって、反対者からは徳川内閣はあくまでも権力の座にしがみつこうとしているとみなされるようになり、聖戦完遂に加えて徳川内閣打倒を求める集会などが開かれるようになる。
こうして、10月が終わるころには徳川内閣は政治的に終わった政権とみなされ、宮中では早くも後継首班選任の準備に入っていたほどだった。そして、それはすぐに噂となって人々に伝わったが、そこから逆に反対者たちの迷走が始まるとは誰一人として考えてもいなかった。
そもそも、徳川内閣の反対者たちは、あくまでも聖戦完遂を求める右派団体およびそれに近しい者たちと新民本主義運動から政権を奪還せんと動く政党と再三にわたる説明にもかかわらず国民配当による経済的損失という起こりえない事象を想像して恐怖する財界だったが、右派団体の求める聖戦完遂などはまともな政治および経済的感覚を持つ政党や財界からすれば論外だったし、右派団体はそうした態度を隠そうともしない者たちもまた、徳川内閣と同じように憎悪し、テロを実行した。こうして、日本では後継首班の人選が済まないうちから、流血を伴った政治的混乱が巻き起こることになった。
五摂家筆頭ながら新民本主義運動に好意的であり、かつアジア主義者として右派諸団体に近かったことから、右派団体、政党、新民本主義運動の仲立ちを行なっていた近衛文麿公爵が襲撃され、交渉による事態収拾は不可能と判断した徳川内閣は、先のフランス大使襲撃事件を阻止できなかったことに続いての失態となる近衛公襲撃事件により警視隊への不信感を募らせ、緊急勅令による戒厳、つまり陸海軍による治安維持という禁じ手を使うことで混乱を収束し、テロを実行した右派団体の壊滅という目的を達成したが、徳川内閣によるこの行動を残る政党、財界勢力は追い詰められた徳川内閣が、ついに軍政による反対者への粛清を決意したと判断して自らも助けられたにもかかわらず激しく批判し、戦時中ということもあって摘発を免れた右派団体に親和的だった陸海軍の一部とともに再び反対者たちは反徳川内閣の目的のもとに結集した。
そして、事態は昭和維新の旗を掲げた彼等による竹橋事件以来の反乱へと発展することになる。




