第27話 第一次世界大戦<5>
1908年10月31日、フランス軍はドイツ帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンのメッツを目標に秋季攻勢を開始した。この戦いではフランス軍によって、ルヴァヴァサー大尉の開発したシャール(以下、戦車と表記)が投入された。
その数およそ40輌。だが秋季攻勢が終わるまでにそのうちの30輌が機械的故障やドイツ軍の攻撃によって放棄、または破壊された。
それらとは別に2輌が日本陸軍の遣欧軍に貸与されていたが、こちらは2輌とも作戦前の機械的故障により作戦参加はかなわなかった。
特にこの時投入された戦車には現代の戦車のように機関銃などが装備されていなかったため、ドイツ軍歩兵による即席爆弾を使用した攻撃に対処するには搭載された野砲だけでは不十分だった。
だが、この戦車の投入が結果的に戦局を大きく動かす事になる。
当時のドイツ帝国では第一次世界大戦の長期化によって、従来よりあったドイツ帝国内部でのプロイセンを中心とするプロテスタント系の構成国とバイエルンなどのカトリック系構成国の対立が高まっており、塹壕共同体とでもいうべき強固なドイツ人意識が形成された前線は別にして、ドイツ帝国はフランス、ロシア、ベルギー、オランダといった国外の敵とは別に南北間の対立という国内の敵ともいうべき存在に対処しなければならなかった。
そこで起きたメッツの陥落という敗報にドイツ帝国は衝撃を受けた。
更にフランス軍が投入した戦車に関しては情報統制がなされていたが、少しずつ情報は不十分な形で伝わっており、噂は少しずつ変容しながらドイツ帝国全土に広がり、ついには陸上戦艦ともいうべき巨大な代物をフランス軍が投入したという事になっていた。
第一次世界大戦で戦車が最も戦果を上げたのは戦場においてではなく、銃後においてだった。
東部戦線において、フランス軍秋季攻勢の発端となったオデッサが陥落しロシア帝国がドイツ帝国との講和交渉に入ったのはまさにその時だった。僅かな差でロシア帝国はドイツ帝国より先に音を上げたのだった。
後の歴史家にはもう少しロシア帝国が戦争を継続していれば、ロシア帝国は勝者として戦争を終える事ができたのではないか、という学説を唱えるものもいるが、当時のロシア帝国政府は秋季攻勢開始前の10月の段階でドイツ帝国と水面下で交渉を行なっていたのではないか、との研究もありはっきりとしない。しかし明確な勝者として戦争を終えていた場合、ロシアの歴史は異なったものになっていた可能性が高い。
ロシアとドイツの講和の知らせはフランス、ベルギー、オランダといった西部戦線でドイツと戦っていた国々では大きな混乱を引き起こした。
休戦か、継続か、大きく意見が分かれる中で、ベルギーとオランダが本国復帰が認められれば他にどのような条件であっても、ドイツと講和することを主張し始め、同盟国側でもオーストリア=ハンガリー帝国が講和に賛同したことでイギリスが仲介に入る形でロンドンにて講和会議が開催された。
このロンドン講和会議の開催にあたってドイツ帝国は大日本帝国を除外する事を連合国に対して暗に求めていたが、連合国側はこれを拒否した。
大日本帝国は独立国として第一次世界大戦を戦った連合国の一員だと、彼らから認められていたのだった。
講和会議によって、ドイツはエルザス=ロートリンゲンの内、現在占領下にあるロートリンゲンと太平洋上の島々をフランスに、ニューギニア島のドイツ領をオランダにそれぞれ割譲し、オランダ領のロッテルダムとベルギー領アントウェルペンとベルギー植民地のコンゴの割譲要求を取り下げ、オランダ、ベルギーに対して10年間の復興のために必要な石炭その他資源及び物資の供給を行う代わりに、
ベルギー領コンゴでの経済的活動、スペイン勢力圏を除くモロッコ王国の勢力圏化とロシアとの休戦条約で定められたバルト海沿岸地域、ロシア領ポーランド、ドニプロウクライナを除くウクライナ西部地域のロシア帝国領土の放棄、ギリシアを除くバルカン半島での優越権が正式に認められた。
その後、ポーランドとウクライナ西部のヴォルィーニ地域についてはオーストリア=ハンガリー帝国のハプスブルク家の下でポーランド王国として独立する事になる。
賠償については請求が天文学的になるとの理由で定められなかった。各国が積み上げた外債についても緩和策を取る事が合意された。
1908年12月25日、第一次世界大戦は終結した。




