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第269話 元帥の野望と講和への一歩目

1939年7月16日 アルゼンチン共和国 サン-ルイス州 サン-ルイス

1594年に作られたアルゼンチンでは比較的古い都市であるサン-ルイスはブエノスアイレス、コルトバに続いてアルゼンチンの臨時首都となっていたが、それもこの日までだった。


昨年以来、アメリカ合衆国は同盟国であるアルゼンチンを支援するべく、アルゼンチンの主敵であるブラジルの各都市への艦砲射撃などにより多くの損害を与えていたが、そうした攻撃はそのままブラジル人のアルゼンチンへの憎しみを育むことになり、北からのブラジル人の熱狂的な戦意と、南からの二度と自らの祖国を失うまいという強い決意をもって挑んでくるパタゴニア執政府の攻撃の前に追い詰められていった。


とはいえアメリカからすれば、ペルーやベネズエラといった国家と違い周囲を敵に囲まれていたアルゼンチンの降伏はブラジルやチリといった大協商陣営各国を早期に撃破できなかった段階で、想定されていたことであり、むしろ予想以上に長く善戦したことに対して惜しみない賞賛が送られていたが、いくら賛辞を贈られたといってそれが物資や兵力の代わりになることはなく、そしてついにこの日、降伏を余儀なくされたのだった。


「とりあえずは終わったのだな…スペインを棄てて14年長かったな」


パタゴニア陸軍アルゼンチン占領軍司令官フランシスコ-フランコ-バアモンデ陸軍元帥は満足げに微笑んだ。かつてのイベリア半島での動乱時にはガリシア蜂起軍少佐であった男は今やパタゴニア陸軍大将となっていた。動乱の終結後にスペイン陸軍への復帰が認められなかったフランコは失意のうちにスペイン王国を去り、移民国家であるパタゴニアにて新たな人生を歩むこととした。


常にアルゼンチンという北からの脅威にさらされていたパタゴニアにおいてはフランコのような実戦経験を持つ元正規軍人は貴重であり、その出世は早かった。それだけならば他の優秀な軍人たちとそこまで差はなかっただろうがフランコには他にはなく、自身でもパタゴニアに来るまではわからなかった秘められた才、権力闘争を生き残るための才覚が備わっていた。フランコはその才覚でパタゴニアの派閥闘争の中を縦横無尽に駆け抜け、開戦後の武功もあって、大将にまで栄達を遂げることに成功した。そしてこの度パタゴニア側のアルゼンチン占領軍司令官となるにあたり、ブラジルやチリといった他国軍に劣らぬためとして最高位である元帥へと昇進していた。


そんなフランコが次に狙っていたのは健康状態が悪化しつつある司令官兼外務大臣ガブリエーレ-ダヌンツィオの後継者の座だった。


すでにアルゼンチンが劣勢となった時から、その後継者争いは始まっていたが、それほど激しい争いにはなっていなかった。情勢次第ではアルゼンチンによる再攻勢もありえたからだ。だが、アルゼンチンはが滅んだ以上、チリやブラジルと違って目の前の脅威はなく、後継者をめぐる争いが本格化するのは目に見えていた。


主な候補者候補としては未来派の建築家であり、開戦後には軍需相も兼任していたアントニオ-サンテリアやドイツ系移民を纏め上げ、パタゴニア以外にも同盟国のチリやブラジルの財界や軍に影響力を持つシュライヒャー機関とかかわりの深いフェルディナント-フォン-ブレトウなどが挙げられていたが、フランコは自身こそが後継者にふさわしいと考えていたのだった。


はたして、その野望が成就するのかはまだだれにもわからなかった。


1939年7月20日 イギリス ウェールズ ヴェール-オブ-グラモーガン セント-ドナッツ セント-ドナッツ城

ウェールズ南部のヴェール-オブ-グラモーガンにあるセント-ドナッツはウェールズの伝承では伝説上の王であるアーサー王に聖杯の番人として任じられたとされる聖カドックの友人であり、同じく聖人でもある聖ダンウィットにちなんだ村であり、周囲には中世に建てられた古城や教会などがあった。


そんな、中世を感じられるこの地は観光地として人気であり、多くの富豪たちが観光に訪れたが、それはイギリス国内だけでなく国外からも訪れた。


このセント-ドナッツ城は12世紀にノルマン貴族であるロバート-フィッツモハンに付き従ったストラリング準男爵家の城が起源であり、1738年に当時の当主であったトーマスが決闘に敗死すると、ストラリング準男爵家そのものが断絶したため、城は人手に渡り、1925年に1人のアメリカ人大富豪が別荘として購入した。


そのアメリカ人大富豪は名をウィリアム-ランドルフ-ハーストといい、1939年現在のアメリカ合衆国大統領であった。当然敵国の大統領の資産であるからして、セント-ドナッツ城も開戦後には接収されたのだが、もともとハースト自体、あまりこの城を訪れることがなかった為か、イギリス、アメリカの双方の側がほとんど無視している状況だった。


「ここがどのような場所かは大統領から聞いてはいましたが、実に美しい城ですな」

「ええ、貴国の大統領は実に良い審美眼をお持ちのようですな、全く羨ましい限りで」

(一体これのどこが…ああ、たぶん皮肉だな)


近くの修道院から移設した屋根に、ルネサンス期のミラノで作られた甲冑、古代ギリシアの壺などおよそ時代がバラバラな、ただ"美しい"だけのものを集めた、それだけの城の内部を歩きながら、談笑するアメリカ人とイギリス人を見ながら、フランス人は思った。


「ところで、ある程度"条件"に関しては考えていただけたのですか」

「ええ、少なくとも"我々"は飲むことにしました。尤もある程度は"我々"の側の話も聞いていただきたいものですが」


アメリカ人、アメリカ合衆国より派遣された特使であるクエンティン-ルーズベルトの言葉にイギリス人、イギリス首相兼外務大臣セシルオブチェルウッド子爵ロバート-セシルが答え、フランス人、フランス外務大臣であるルネ-マッシリはセシルの言葉に同意した。


「少なくとも南北アメリカとアフリカに関しては"概ね"同意しますよ。わがフランスとしては森林ギニアと沿岸ギニア、それにサッサンドラ川の以西の象牙海岸を、イギリスもシエラレオネをリベリアに、南アメリカにおいてはグアヤナエセキバをベネズエラに対して割譲し、加えてコロンビアの占領に関しても黙認しましょう、そして西インドの島々とカナダに関してはいうまでもありません。しかし、東洋とオーラリア、そしてポルトガル共和国を自称する勢力の承認に関してはまた別です」


マッシリはルーズベルトに対してはっきりとそういった。それがフランスのみならずイギリスの意思でもあることは明らかであり、ルーズベルトとしてはいったん交渉を打ち切るしかなかった。


だが、それでも、この日の会談は画期的なものであり、アメリカが大協商陣営との講和に向けて一歩を踏み出した日として歴史に残ることになった。


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