第266話 クラスノヤルスクとホールズクリークの攻防
1939年4月2日 ロシア帝国 クラスノヤルスク県 クラスノヤルスク郊外
「まだ、まだ、低く」
女性操縦士であるエカテリーナ-ヴァシリーエヴナ-ブダノワは操縦席で言い聞かせるようにそう言った。
クラスノヤルスクでは昨年より激戦が続いていた。ペトログラードを奪われ、モスクワも陥落寸前という状況で、クラスノヤルスクの維持については意見が分かれたがエカテリンブルグを臨時首都としたロシア帝国政府はその維持にこだわり続けた。相手はアメリカの同盟国である極東社会主義共和国であり、ロシアはクラスノヤルスクが社会主義者の手に渡らないよう、増援を送り込んでいた。その中にはドイツ人の攻撃によって追われたために志願した女性を含む年少兵や試作兵器の群れなどが含まれていた。
「よし、そろそろ…今、上昇」
ブダノワの言葉に合わせるかのように電波探知機に捉えられぬように低空飛行を続けてきたロシア空軍の回転翼機たちが一気に上昇し、機体の左右につけられたロケット弾を一斉に発射した。たちまち極東軍の車列はまともな対空戦闘もできないまま壊滅した。
そのあとブダノワはまだ残った車両を機首のマドセン社製20mm機関砲で攻撃するべく機体を反転させ、ツポレフ社でジェットエンジンや過給機の研究に取り組んでいた技師セルゲイ-パブロヴィチ-コロリョフの研究の副産物であるターボコンパウンドエンジンがそれに応えるようにうなりを上げた。
回転翼機自体は8年前に試作機が披露され、皇帝であるアレクセイ2世が搭乗したこともあったが、それからは半ば忘れ去られていた存在だった。転機が訪れたのはシベリア侵攻開始直後にロシア帝国陸軍で最年少の将官となっていたミハイル-ニコラエヴィチ-トゥハチェフスキー少将が空挺部隊の創設を提案したことだった。この提案は衝撃戦の生みの親であるラーヴル-ゲオルギエヴィチ-コルニーロフ元帥をはじめとする多くの賛同を得たが、ある人物が断固としてそれを拒否したために実現することはなかった。
拒否したのはアレクセイ2世だった。
アレクセイ2世は社会主義者を援助するアメリカを社会主義者たちと同様に根絶やしにすべき敵であると考えており、そのアメリカ人が発案し、極東やドイツといった社会主義者たちが運用する空挺部隊などというものはロシアには不要であると言い切ったのだった。
子供じみた反対としか思えない理由での拒否だったが、皇帝たるアレクセイ2世の反対は絶対であり、別の方策を模索するしかなく、そうした中で注目されたのが回転翼機だった。とはいえ課題も多く、特に小型大出力のエンジンが開発に必須とされ、なかなか開発が進まなかったがコロリョフが副産物として生み出したターボコンパウンドエンジンによってその問題が解決され、量産に入るかと思われた矢先にドイツによるロシア侵攻が始まったのだった。
それを受けてさほど重要とは思われていなかった回転翼機の優先順位は当然下げられていたが、今回のクラスノヤルスク攻防戦では輸送ではなく攻撃用に改造されて、ほかの試作兵器同様に投入されていたのだった。この時、回転翼機の操縦士には女性操縦士が多く選ばれていた。これは空軍側が機種転換訓練による時間の浪費を嫌がったためとも、戦闘機や爆撃機のように第一線で必要な戦力ではないのだから女性で十分との意見があったためともいわれるが、いずれにせよクラスノヤルスク攻防戦は世界初の回転翼機が戦果を挙げた例として戦史に刻まれることになる。
1939年5月20日 オーラリア キンバリー地域 ホールズクリーク
シベリアとほぼ同時期に戦いが始まったオーストラリア大陸でもいまだに戦いは続いていた。金山の廃鉱があるだけだった小さな町ホールズクリークでは、オーストラリア軍およびその同盟軍であるアメリカ軍とオーラリア軍並びにイギリス軍(これには多くのインド帝国軍も含まれていた)との間で激戦が行われていた。
古代ギリシアに起源を持つピレウス帽に似ていることからアメリカンピレウスと呼ばれる特徴的なヘルメットをかぶった兵士たちが次々と市街地に突入していったが、歩兵支援のため先頭を進んでいたファイアストーン社製の76mmGMC、自走砲車が隠蔽された対戦車砲の攻撃で炎上したのを合図に兵士たちは対戦車砲と同様に町中に巧みに隠蔽された火器の餌食となって倒れていった。
「いかんな、これでは…あと一押しでバードウッドを海に放り込めるというのに」
前線の視察に訪れていたオーストラリア陸軍のシリル-ブルーデネル-ビンガム-ホワイト大将は報告を受けてからぽつりと言った。バードウッドとはオーラリア総督であるウィリアム-リデル-バードウッドのことであり、インド陸軍総司令官を務めた経験もある元軍人であるバードウッドは戦える総督として有名であり、オーラリア側にとってはバードウッドの存在は精神的な支えであったが、オーストラリアからすれば厄介ことこの上なく、バードウッドを海に放り込めというフレーズはオーストラリア軍将兵のみならず、アメリカ陸海軍兵士の間でも言われるほどだった。
「やはり、化学兵器が使えないのはな」
ホワイトはそういうとため息をついた。
オーストラリア戦線でも例にもれず化学兵器の使用は行われていた。とくに有名なのはアリススプリングス第2の悲劇と呼ばれた化学攻撃であり、これは内戦当初に廃墟となったアリススプリングスの郊外に再び築かれた同名の町、という名のバラックの群れの中でゲリラ戦が展開されたためアメリカ軍が化学兵器を使用し、一般市民もろともに抵抗者を排除したものだった。当然イギリスなどはこれを非難したが、逆にオーストラリア側はこれを反逆者に対する当然の懲罰と称賛した。イギリスという敵の存在により、米豪の団結は固いと考えられており、特に問題はないとされていた。だが、ここにきて不協和音が目立ち始めていた。
アメリカ人は自国勢力圏とみなす南アメリカでは特に沿岸部での艦砲射撃など激しい活動を行っていたのに対し、オーストラリアでの作戦を徐々に部隊の再配置と称して縮小しようと動き始めていたからだった。これによって当然アメリカ軍管理下にあった化学兵器は本国へと戻されることになってしまった。
やむをえずオーストラリア側は独力でオーラリアに対する攻撃を続行することになったのだが、フィリピンでのアメリカの敗北とその後のアメリカ軍の再編成の隙を突いた形でオーラリア側の防備が強化されており、特にそれまで渋々ながら認めていたインド兵をはじめとする有色人種兵士たちを積極的に受け入れる姿勢を見せ始めたのだった。
こうしたこともあり、オーストラリア側ではオーラリア側に対し局所的にではあるが劣勢に立たされることも増え始めており、ホワイトが視察に来ていたのもそうした状況を肌で感じるためだった。
結局、ホールズクリークの戦いはオーストラリア軍の勝利に終わったものの、その損害は甚大でありアメリカの支援なくしてはいずれオーラリアに敗北する日が来るのではないか、そんな1年ほど前ならばあり得ないと笑ったような悪夢が現実になるのではないかとの考えをホワイトは抱いたが、肝心の同盟国アメリカがどう動くのかはホワイトを含めたオーストラリアのだれにもわからなかった。




