第262話 名前だけの解放者
1938年6月15日 ベネズエラ共和国 カラカス
「クソ暑いなここは」
「そうですか?確かにカナダに比べれば暑いとは思いますが」
「お前の前任地はホンジュラスだったかもしれないがこっちはアルバータだぞ、ああ、暑い」
「まぁ、フロリダあたりにでも旅行に来たと思えば…」
「旅行気分で戦争をする奴がどこにいる?戦争は戦争らしくするもんだぞ。…まったく、俺はお前みたいに南米の暑さに慣れているわけじゃないのに」
「自分だって慣れたわけではないです。名前だけ、ですよ」
「…笑えんジョークだ。ますます暑くなった気がする」
アメリカ合衆国陸軍ベネズエラ派遣軍司令官であるジョージ-パットンの言葉に幕僚であるサイモン-ボリバー-バックナー-ジュニアは冗談めかして答えて見せたが、パットンは苦笑いを返しただけだった。
アメリカ連合国陸軍中将であり、軍人からジャーナリスト、第30代ケンタッキー州知事、そして1896年大統領選挙の副大統領候補となった多彩な経歴を持つ人物であるサイモン-ボリバー-バックナーの息子として生まれたバックナーは父親の道をなぞるかのように軍人になろうとし、父もそれにこたえてセオドア-ルーズベルトに頼み込んでウェストポイント士官学校への推薦状を書いてもらい、バックナーはウェストポイントに入学した。父親と同じようにその名は南アメリカの解放者であるシモン-ボリバルに由来しており、その名前のせいかバックナーは海兵隊と共同で中米のイギリス領ホンジュラスや同じくイギリス領のジャマイカ島の占領作戦を行なうなど、オーストラリアの荒涼とした砂漠やカナダの寒々とした森林地帯ではなく、蒸し暑い熱帯雨林での戦闘経験が豊富な人物だった。
とはいえ、主戦場はどこかといえばオーストラリアやカナダであり、バックナーは明らかに手柄を立てる機会を逃していた。これはバックナーの戦歴がフィリピンでの戦闘のほかは教官職などの後方勤務が主であったことが理由だったが、バックナーの不満は募る一方だった。
しかし、状況の変化がバックナーにとって思わぬ好機をもたらすことになった。
トーチ作戦とそれ以前よりカナダ地域で行われていた大規模化学戦の影響で北米大陸での戦闘が一時的に小康状態となったことから、以前より提案こそはされていたものの実行に移されなかった南米大陸の同盟国に対する救援作戦を実行することとなった。
南米大陸では世界大戦勃発以前から始まっていた戦いが未だに続いていたのだが、1937年末ごろより反アメリカ国家であるブラジル合衆国、チリ共和国、パタゴニア執政府、パラグアイ共和国、エクアドル共和国、コロンビア共和国が戦局を有利に進め始めたのだった。もっとも後者2国はアメリカ側のペルー共和国とベネズエラ共和国によって分割占領されていたために亡命政権が存在するのみであり、かつてシモン-ボリバルが建国した大コロンビアが存在した領域の大半はアメリカの勢力圏化にあったが、それでも、周囲を敵国に囲まれ、ほかの同盟国との連携の難しいアルゼンチン共和国は劣勢が続き、長らくアルゼンチンに支援された親米政権が存在していたウルグアイ東方共和国では国土の大半が荒廃する激しい戦闘の末にブラジル軍によって制圧され、アルゼンチン側は内陸部コルドバへの首都移転を決定するなど特に劣勢だった。
順調に見えるペルーとベネズエラについても内情はそこまで安定した状況とは言えなかった。
特にペルーにおいては開戦以来日系移民と清国系移民に対する強制収容が行われていた。これは19世紀の太平洋戦争の際に進撃してきたチリ軍によって解放された清国出身の苦力たちが各地で山賊となり略奪暴行を働いたという苦い記憶から行われたものだった。もっとも、苦力たちが山賊化した背景には、解放されるまでは事実上の奴隷状態であり、まともに人間扱いをされていなかったのが原因ではあるのだが、兎も角そうした『黄色の恐怖』を払拭するべく作られた収容所は極寒のアンデス山脈か、灼熱のセチュラ砂漠のどちらかであり、突貫工事作られたため収容者の多くは飢えと寒さ、あるいは暑さで次々と死んでいった。
しかし、そのようなことをしても戦況が好転することはなかったためペルー政府は国内に多数存在するインディオも内通者と決めつけて次々と収容所に送り込んだ。これは敵国のうちの1国であるパタゴニア執政府が表向きにはインディオであるマプーチェ族を称揚していたこともありペルー国内では特に表立った異論はなかったが、それまでも抑圧されてきたインディオたちの間では少しずつペルー政府に対する抵抗運動が起こり始めた。
その抵抗運動を組織したのが、アメリカによるメキシコ出兵で祖国を追われたホセ-ヴァスコンセロス-カルデロンとヴァスコンセロスの思想的影響を受けたホセ-カルロス-マリアテギの病没後、新たにその同盟者となっていたヴィクトル-ラウル-アヤ-デ-ラ-トーレであり、かつてヴァスコンセロスとマリアテギが行っていたペルー壁画運動によって、視覚的に自らの置かれた状況の不条理さと抵抗の必要性を認識していたインディオたちの活動はそれまでのスペイン植民地時代から変わらず起こっていたような一揆ではなく、近代的な革命運動へと変化しており、ペルー政府は鎮圧に苦慮することになる。
ベネズエラではこうした国内でのインディオによる抵抗運動こそなかったが、アンデスの暴君と呼ばれた独裁者であるフアン-ヴィセンテ-ゴメスに反対した革命家であるラファエル-シモン-ウルビナ-ロペス率いる民主化を求める革命派による抵抗運動があった。1935年に死去したゴメスに代わって後継者となったホセ-エレアザル-ロペス-コントレラスは緩やかな民主化を行おうとしており、ロペスとの交渉を試みていたのだが、その試みは同盟国であったアメリカからの圧力によって阻止された。ロペスはかつてゴメスに対する武装蜂起を行なうためもオランダ領キュラソー島の総督を誘拐し、武器弾薬を入手するための資金として身代金を要求するという事件を起こした過去があり、数少ない友好的な中立国であるオランダ王国をアメリカ側に引き留めるための材料として、ロペスのオランダへの身柄引き渡しを要求したのだった。コントレラスは悩んだ末にロペスを会談のためとしておびき寄せその場で捕縛した。
コントレラスが決断した背景には引き換えにアメリカによる南米、中でもベネズエラへの直接派兵が約束されていたからだった。アメリカによる直接介入が実現すればベネズエラは勝利者として戦争を終えられる、そう思ったからこその苦渋の決断だった。その結果としてパットンとバックナーは派遣軍の兵士たちとともにベネズエラの地を踏むことになったのだった。しかし、コントレラスの決断はロペスの支持者たちを過激な行動に駆り立てるには十分であり、反コントレラスの抵抗運動は激しさを増した。ベネズエラ派遣軍にしてもロペスの支持者からすれば、コントレラスが自身の権力基盤を守るためにアメリカ兵を呼び寄せたように見え、民心は徐々にベネズエラ政府から離れていくことになる。
特にバックナーは同じ名を持つ偉大なる解放者と比較されロペスの支持者によって、解放者と同じなのは名前だけで実態は圧政者であるといったプロパガンダが作成されるようになり、敵対するブラジルなども同様のプロパガンダを作成したが、アメリカではそのプロパガンダをさらに皮肉った風刺映画である『解放者』が上映されるなど宣伝戦の格好の題材となったのだった。
実際のところ、アメリカがそれまでの姿勢を一転して南米への兵力派遣を行なった裏には、同盟国の救援以外にも自国の勢力圏確定とその防衛が目的だった。
大統領であるハーストは中間選挙を控えており、1月20日の一般教書演説では自国とドイツを固い絆で結ばれた自由と革命のために連携する国家であり、両国は最終的な勝利に向かって着実に前進しつつあると述べて、その同盟関係を称賛していたが、実際のところ両国の関係はハーストの言葉とは裏腹に冷め始めており、ベネズエラへの派兵も戦後はアメリカだけでも自立することができるように独自の石油資源を必要としていたからだった。
このハーストのフレーズをもとにドイツアメリカ陣営は連携国ない提携国と呼ばれるようになり、それに対抗するようにイギリス-フランス陣営も主要国である両国が英仏協商を結んでいたことから、拡大された協商という意味で大協商と呼ばれるようになる。
提携国は頼久×2氏の案を改変したうえで使わせていただいたものです。たぶん自分だけで考えていたら一生名前が決まらなかったと思うので、ご提案本当にありがとうございます。




