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第260話 第2次世界大戦<8>

1938年2月10日、トーチ作戦が発動された。

フランス領モロッコではマラケシュで旧モロッコ王国の忠誠を誓う者たちがモロッコ王国臨時政府の樹立を宣言し、イギリス領ゴールドコーストではリベリア経由の支援を受けた黒人独立派が一斉に蜂起した。次にアメリカが仕掛けてくるのはイベリア半島であると思っていた各国政府は完全に裏をかかれ、各国のアフリカ植民地は混沌とした状況となった。


さらに、こうした蜂起の鎮圧に手間取るのを見たほかの植民地にも影響は広がり、特に支援されていたわけではなかったがフランス領スーダンやイギリス領ケニア植民地でも汎アフリカ主義者や独立運動家が蜂起し、また本国の喪失によって統治が満足に行なえていなかったベルギー領コンゴでも騒乱状態となったほか、ハーシム朝アラブ帝国の実質的な統治者である大アミールの御膝元であったはずのエジプトでも、独自の民族主義であるファラオニズムを唱えていた知識人ターハー-フセインが政府によって拘束されるとそれに抗議するデモやストライキが頻発し、政府側との衝突が相次いだ。


このファラオニズムはアラブの征服以前のエジプト、特にエジプト古代文明を称賛し、アラブ世界の中のエジプトではなく独自の民族主義国家としてのエジプトの自立を目指したものだったが、当然のことながらこの主張は政府側に受け入れられることはなく、イスラーム知識人からも預言者以前の混沌とした時代を賛美するものであるとして激しく批判されていた。


にもかかわらずファラオニズムがその活動を継続できていたのは国外、特にイギリスからの支援があったからだった。ハワード-カーターのツタンカーメンの陵墓発掘による古代エジプトブームから始まった、古代文明へのエキゾチックな憧憬もあったが、政治的には汎アラブ、汎イスラームに基づいた反イギリス的な動きが少なからずあったハーシム朝アラブ帝国への牽制のためだった。こうしたイギリス側の態度を苦々しく思っていたアラブ帝国政府はトーチ作戦の発動から始まった各地での混乱を理由にファラオニズムの弾圧に打って出たのだが、アラブ帝国建国以降エジプトにありながら大アミールとしてアラブ帝国を実質的に支配していても、何らエジプトに利益をもたらさず、外国人や帝国各地の諸侯(首長)に利益を分配するムハンマド-アリー朝への不満は根強く、大戦の影響により長く続いていた物価高騰の影響などもありエジプトは騒乱状態となった。


こうしたエジプトの混乱は今や兵力供給のみならず工業生産地としても重要になりつつあるイギリス領インド帝国との結びつきが戦争継続に不可欠となったイギリスにとっては、イギリスとインドを結ぶ大動脈であるスエズ運河にも影響が及ぶのではないかとの懸念を抱かせるのには十分であり、スエズ運河地域の防衛のためにより多くの兵力を割くことにつながった。しかし、そうしたイギリス軍の増派はアラブ帝国政府によってかつてのウラービー革命を打倒した時とは逆に、ムハンマド-アリー朝を打倒するための軍事介入を目的としているのではないかという懸念を抱かせ、ファラオニズムへの弾圧はますます激しさを増すことになる。


こうしたトーチ作戦に伴う各地での蜂起が与えた影響は決して悪いことばかりでもなかった。

それまで、何かとつけてイギリスに対して反対の立場をとっていた南アフリカのボーア人たちが積極的に協力する姿勢を見せ始めたのだった。


これは各地での黒人の蜂起によって南アフリカでも同様のことが起きるではないかと危惧した多くのボーア人たちの間で、イギリスの下での隷属を認めてでも"これまで通りの暮らし"を守るべきであるという意見が多数を占めた結果だった。逆に南アフリカの黒人たち、とくにアフリカ帰還運動の指導者であったマーカス-ガーベイと近かった南アフリカ先住民民族会議などは激しく弾圧されることになる。南アフリカと同様の懸念を持つものは北の隣国であるローデシア植民地でも多く、それまで常に南アフリカによる併合の恐怖におびえてきたローデシアは一転して南アフリカとの提携を深める方針を打ち出した。南アフリカとローデシアはともに過去を乗り越えたのだった。


そして過去を乗り越えたのはイギリスも同じだった。

南アフリカに対してケニア植民地への介入を要請したのだった。その見返りとして戦後のケニア植民地の南アフリカへの併合を問う現地住民(白人のみ)による投票が実施されることになっていた。結果次第では東アフリカ地域全体が南アフリカへ引き渡されることとなり、大英帝国内部における南アフリカの影響力は無視できないものになることは容易に予測することができたが、にもかかわらずイギリスがこのような手段に打って出たのは、かつての敵に背中を預けることになったとしてもこの世界大戦に勝たねばならないという強い意志があったからだった。


そうした意思は国内政治にも表れた。

長きにわたりイギリスへの反抗が続いたアイルランド島の独立を認める方針へと転換したのだった。それによれば、戦後、アイルランドはイギリスに属するが、連合王国からは独立した単一のアイルランド王国へと再編され、イギリス統治を支持するプロテスタント系住民の多いアルスターと、それ以外のコノート、レンスター、マンスターに分けられ、人口的には少ないアルスターへの配慮として、議会におけるアルスターとその他地域の議員数は同数とされていた。議会制度については不満があったものの、それでも独立を認められたことは大きな前進であり、アイルランド人たちは大いに喜んだ。


変化があったのはアイルランドだけではなかった。

それまで保守党の単独内閣であったロバート-セシル内閣だったが、大規模な内閣改造を行い自由党、そして労働党からも閣僚を入閣させた挙国一致内閣としたのだった。保守党はもちろん、自由党からも労働党からの入閣に関しては大きな反発があった。何しろ相手であるドイツが社会主義の総本山なのだから当然だった。これに対して労働党党首であったレオポルド-チャールズ-モーリス-ステネット-アメリーは労働党の基本方針はあくまでもイギリス帝国の枠内での社会改良であると訴え、入閣に際してもモズレー準男爵家の当主でありながらイギリス帝国の枠内での社会改良という方針にひかれて入党していたオズワルド-モズレーを送り込むなど、それなりの配慮を見せた。


徹底的な社会主義者の排除によって国内をまとめ上げていた同盟国フランスとは対照的に、イギリスは社会主義政党である労働党を取り込むことで、挙国一致体制を作り上げることには成功したが、アイルランド独立と強引な挙国一致体制への移行がもとで保守党内ではセシルの求心力は衰えていくことになる。


こうして各国に様々な影響を与えていたトーチ作戦だったが、最も大きな影響与えたのはアメリカとドイツの同盟関係に関してだった。


アメリカの支援によるアフリカ各地での蜂起を最も歓迎しなかったのはドイツだった。

これはドイツ側が大西洋からヨーロッパロシアとインドまでの地域についてはドイツが主導する社会主義ヨーロッパの領域であると定義していた為であり、そのため、トーチ作戦はドイツからすれば完全な裏切りであり、駐アメリカドイツ大使のウルリヒ-フリードリヒ-ヴィルヘルム-ヨアヒム-リッペンドロップがウィリアム-ランドルフ-ハースト大統領への抗議のためにホワイトハウスを訪れたほどだった。


こうして、トーチ作戦はドイツとアメリカの握手を目的とした作戦であったにもかかわらず、皮肉にも両国の間に大きな溝を作り出すことにつながったのだった。

少し時間が空いてしまいましたが、新年最初の投稿となります。今年もよろしくお願いします。

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