第258話 第2次世界大戦<7>
今回はいつもの話より長めです。
1937年7月26日、アメリカ軍占領下の台湾府に対して、大日本帝国陸軍航空隊が爆撃を開始した。陸軍航空隊の主力はイ式重爆撃機とよばれる4発重爆撃機でありイタリア王国ピサに拠点を置くフィアット社の子会社CMASAが開発した重爆撃機だった。
CMASAはもともと水上機を開発していた弱小航空機会社だったが、大西洋横断定期飛行の実現によって需要が伸びていた飛行艇市場に参入すべくスイスから1人の航空技術者を招いた。その名はクロード-オノレ-デジレ-ドルニエ。フランス人の父とドイツ人の母に生まれたドルニエはその生まれから優秀な才能にもかかわらず社会主義革命後のドイツでも一時亡命していたフランス共和国でも受け入れられずにスイスにおいて細々と航空機を作っているだけだった。
CMASAはそんなドルニエに目をつけ招聘したのだが、世界最大の飛行艇を目指して作られた12基のエンジンを備えた巨大飛行艇はCMASAの経営を圧迫しついにはフィアット社にドルニエもろとも身売りされてしまった。その後もドルニエはフィアット社の子会社となったCMASAで設計を続け、4発旅客機を独自に設計し、さらにそれをもとにした爆撃機も制作した。
この機体はイタリアでの試験ではピアッジョ社の新型爆撃機に敗れてしまったが、イタリア系移民が多くそれゆえにイタリアとの結びつきが強かったパタゴニア執政府やブラジル合衆国などに輸出されており、日本も陸軍航空隊の主力爆撃機として採用していたものだった。この突然の攻撃に対し、アメリカ軍は必至の迎撃を行うものの、新竹や台北の航空基地は爆撃によって壊滅的な打撃を受けた。
とはいえ、アメリカ軍の動揺は少なかった。機材の補充や基地の補修などそう難しいことでないからだったが、次に日本陸軍航空隊がフィリピンへの空爆を行い始めるとその反応は変わり始めた。日本軍は台湾を飛び越えてフィリピンへの上陸を狙っているのではないか、そうした推測がアメリカ軍内でささやかれ始めたが確証はなかった。
しかし、陸軍はフィリピン上陸の可能性は高いと考え、その防衛に重点を置くように主張した。これに対して海軍は日本軍の目標はフィリピンではなく台湾であるとの見解を示した。陸海軍の対立は根深かったが、結局大統領であるウィリアム-ランドルフ-ハーストの意見によりフィリピン防衛が優先されることになった。
こうしてフィリピン防衛のために態勢が強化されたが、その中で力が入れられたのがベニグノ-ラモスが主導するフィリピンのアメリカからの完全独立を目指す組織であるサクダリスタ運動の弾圧だった。もともと、フィリピンは1916年のフィリピン自治法により責任政府樹立を条件に将来的な独立を約束されていたのだが、アメリカが日本や清国といったアジア諸国との対立を深め、さらにその同盟国であったフランス共和国およびイギリスとの対立を深めるにつれて、アメリカ政府内では早期独立を認める意見は少数派となっていった。
その一方でアメリカ本土やハワイ諸島などに多かった日系及び清国系移民の排斥運動がメキシコ風邪などの影響もあって高まり始め、その代わりとしてフィリピン系移民の受け入れ要請が経済界より出始めると、反移民を信条とする愛国党政権は当初これを受け入れようとはしなかったが、フィリピン人に対するアメとして役に立つと考えて最終的には容認し、自治領からの移民として特例的に受け入れを進めるようになっていた。
こうした移民たちからの送金はフィリピン経済の大きな柱となったが、独立運動家たちからすればただの首輪に過ぎなかった。しかし、それでも経済的豊かさへの欲求は捨てきれず、近年ではフィリピンの主要言語のひとつであるタガログ語を完全禁止として、英語に切り替えようという動きが自主的にフィリピン人の中から起こるほどであり、開戦後にはフィリピンスカウトとしてアメリカ軍に従軍することを選んだフィリピン人も多かった。このような状況に反発していたのがラモスをはじめとする独立運動家であり、各地でストライキやテロ活動などを行う一方でタガログ語教育を進め、アメリカの支配に反抗していたのだった。サクダリスタ運動は必ずしも多数派とは言えなかったが、アメリカ、特に陸軍の側は過大評価し、日本軍の上陸と連携しての蜂起を強く警戒していたのだが、結局日本軍はフィリピンへと上陸せず台湾へと兵を進めたのだった。
台湾上陸を許すという失態を犯したアメリカ側はアジア艦隊を派遣し上陸中の日本軍を叩く事とした。相手に先手を取られる形となったが、アメリカ海軍の圧倒的優位は揺らがないと考えられていた。なにしろ『ハインライン-システム』という最強の射撃管制装置があるのだから当然だった。だが、日本海軍も『ハインライン-システム』の詳細は知らずともアメリカ海軍が電波探知機を射撃のために利用していることはわかっていたため、当然その対策も取っていた。といってもそれを実行に移したのは海軍ではなく陸軍、より正確には陸軍航空隊だった。
陸軍航空隊は極東社会主義共和国との対立が強まるにつれて、独自にウラジオストク、ザミャーチンスクなどに対する渡洋爆撃を計画しており、海軍にその協力を仰いでいた。こうした陸海軍航空隊間での協力は陸軍飛行学校の千葉県稲敷郡阿見村の海軍航空隊霞ケ浦飛行場への移転に伴う航空に関する教育の統合に伴いさらに深いものとなっており、日本陸軍航空隊は電波欺瞞紙や妨害装置を用いた電波探知機に対する妨害を行なった。これはロシア帝国のシベリア侵攻において極東がアメリカより供与された電波探知機によって管制された迎撃によって多くの重爆撃機を撃墜していたことから、その対策として開発されていたものだった。こうして、まず目である電波探知機を潰されたアメリカ海軍だったが、それでも砲戦において未開なアジア人に負けるはずがないと考えていた。かつて、イギリス人にも勝利したという事実がその考えを補強していた。
すでに日が落ちてから始まった砲戦において、日本海軍の砲撃は異様なほど命中弾が多かった。これは日本海軍が赤外線投射装置を利用した暗視装置を装備していたためだったが、さらに近弾となった砲弾もそのままサウスカロライナ級アイオワの装甲を貫いた。水中弾効果と呼ばれる現象が発生したのだった。
かつて、サウスカロライナ級の出現に恐怖した日本海軍は、それを撃沈することを目指したが、一方で自らの装備する戦艦の砲が37センチ砲であり、口径ではアメリカに対して劣っているのが実情だった。色々と模索していた日本海軍だったが、清国海軍が定遠代艦と呼ばれる16.5インチ砲艦の整備を発表すると、とりあえずは現状の戦力だけでもなんとか対抗できるようにできないかという意見が主流となり、砲身の内筒を削るという荒技で無理やり16インチ砲に仕立て上げた。
それに伴って問題視されたのが命中精度の悪化であり、日本海軍は廃艦となる河内型を利用して徹底した実験を行なった。その際に確認されたのが水中弾効果であり、以後日本海軍は直接命中せずとも敵艦に損害を与えることのできる水中弾効果を第一とした徹甲弾の開発を行なっていた。しかし、敵とされた側のアメリカ海軍はそうした日本海軍の動向に注意を払うことは全くなかった。アジア艦隊にしても主な敵はイギリス東洋艦隊とされていた。
アメリカ海軍アジア艦隊はそうした長年の傲慢と怠慢の報いを受けたのだった。素早いダメージコントロールによって沈没こそは免れたものの、手痛い損害を受けたアジア艦隊は作戦を中断してフィリピンに引き返すしかなかった。この日本陸海軍の協調の成果である台湾沖海戦の勝利は台湾解放を決定づけるものであった。
アメリカ極東陸軍司令官で前参謀総長でもあったダグラス-マッカーサー中将は熱心な愛国党支持者でマッカーサーの参謀総長時代の副官であり、現在ではその後任として参謀総長を務めているジョージ-ヴァン-ホーン-モーズリーのとりなしでその責任をとらされることはなかったが、代わりに副官であったドワイト-デーヴィット-アイゼンハワーが最終的には無罪となったものの日本軍に対する情報漏洩の疑いにより軍事裁判にかけられている。これは"通常ならば"未開なアジア人にアメリカ軍が敗北することなどありえず、情報漏洩があったのではないか、との疑いから行われていたものだった。この裁判においてマッカーサーはフィリピン戦の敗北はアジア艦隊司令官フランク-ブルックス-アパム大将に責任があると主張し、対してアパムやアイオワ艦長のチェスター-ウィリアム-ニミッツ大佐が陸軍の対応を批判するなどしてアメリカ軍内部では海軍と陸軍の対立を決定的なものとなってしまった。
アメリカは報復として極東による樺太島への侵攻を要請し極東側も承諾したが、その後すぐにそれまで守勢に回っていた英領インドからの支援により清国陸軍が長城を超えて反攻作戦を開始したことを理由に中止した。このころ極東ではドイツによるロシア侵攻を契機にドイツ軍と握手を交わし今こそ全ロシアの社会主義化を達成すべきという西方優先戦略論が主流となっており、日本や清国に対しては深入りを避けるべきという意見が多かったからだった。アメリカはこの極東の"身勝手な"戦略変更に対し怒り狂ったが、かといって極東の崩壊は自国のアジア戦略の完全な崩壊を意味するため何もすることができなかった。
こうして、アメリカは独自に報復を行う必要に迫られたのだった。
頑張ってあと一話ほど投稿したいと思っていますが、もしかしたら今年最後になるかと思って詰め込んだらそれなりに長くなってしまいました。読みづらいとは思いますがご容赦を…




