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第257話 第2次世界大戦<6>

1937年の初夏、半ば膠着していた戦線が動いた。

まず初めに動いたのは東部戦線だった。それまで進軍を控えていたドイツ軍(といっても主力の多くはポーランド系だった)が進撃を開始し白ロシアとウクライナの大半を制圧した。最もこれらの地域は元々反乱が多発していた事から、放棄する前提で話が進められており、ロシア軍は迅速な撤退の後、大規模な化学戦を行ないはじめた。


ドイツ側もその可能性は予期しており、あらかじめ除染車両や防毒面などは配備されていたため、白ロシア及びウクライナとロシア本土の一部の化学汚染された地域において、対化学戦装備を装着した両軍が激突した。こうした東部戦線における大規模な化学戦は、カナダ方面での抵抗活動に苦しめられているアメリカ合衆国によって分析、模倣され、カナダ地域における"暴徒鎮圧作戦"として北アメリカにおいて実行されることになる。


西においてもドイツ軍(こちらの主力はドイツ系)が攻勢に打って出た。

パリを目指すドイツ軍とそれを阻止しようとするイギリス、フランス連合軍がセダンで激しい攻防戦を演じた。陸での戦闘ではドイツ軍が大直径転輪と長砲身77mmを装備した1号戦車や、その主砲を88mmに換装した2号戦車が主力だったのに対し、フランス軍は車体共通化構想の利点を最大限利用した対戦車自走砲の群れでこれに対抗した。


第2次世界大戦の前哨戦であったシベリア侵攻において極東社会主義共和国軍が急造対戦車自走砲で対抗した戦訓から編み出されたものだったが、極東の急造品とは違いきっちりとした企画化と設計の下で生産されたこれら多数の自走砲により数で勝るフランス軍に対しドイツ軍は苦戦を強いられた。もう一方のイギリス軍はといえばフランス人よりも堅実な方法を選んでいた。イギリス独自のホルストマン式サスペンションを備え、主砲には2号はともかく1号には見劣りしない3インチ砲、そしてそれを動かすエンジンはネイピア社製のライオンエンジンに過給機をつけて580馬力を出すというイギリスが当時作りうる最良の戦車である巡航戦車mk.2をイギリス海外派遣軍に集中配備していた。


戦いが起こっていたのは陸だけではなかった。空でも激しい攻防が続いていたのだった。ドイツのエルンスト-ハインケルとヨーゼフ-シドロフスキが開発したジェット戦闘機が空を舞い、ソッピースやブレゲーといった従来のレシプロ戦闘機を叩き落とした。


それに対するイギリスの回答はヴィッカース-ヴィクトリー爆撃機をはじめとする航空戦力を一気にたたきつけることだった。ムーズ川にかかる橋梁を吹き飛ばしたのを皮切りに最終的にはドイツ本土への1000機爆撃へと拡大することになる。そしてハンブルクやエンゲルスハーフェン(ヴィルヘルムスハーフェンより改称)といった都市が空襲を受けた事で、新鋭のジェット戦闘機は本土防空へと回されるようになり、前線からは姿を消したものの、西部戦線の空では依然として激しい攻防が続く事になる。


さらに空を駆ける者たちが狙うのは同じ空を飛ぶものだけではなかった。

のちにドイツ人から悪夢のように恐れられる機体となる対地攻撃機、ポールトンポール-デファイアントが初めて投入されたのもこの戦いだった。ロシア帝国空軍(当時は航空隊)の元操縦士であったセルゲイ-ウラジミロヴィチ-イリューシンが設計した機体であったが、その後、シベリア侵攻により大量の対地攻撃機が求められるようになるとロシア国外へも発注することになり、その中で選ばれたのがポールトンポール社であったが、第2次世界大戦の開戦に伴い、対地攻撃機を求めていたイギリス王立空軍に配備されることになった。だが、大量生産に不慣れなポールトンポール社は量産に手間取り、結局投入が遅れていたのだった。


一方のフランスはといえば、空においてはあまり存在感を示すことはなかった。

これは当時のフランス空軍では、陸軍の車体共通化構想に刺激を受けた多用途機構想が主流であり、戦闘、偵察、爆撃、そして必要とあらば編隊の指揮までも行える多用途機はある種理想ともいえる機体であったが、悪く言えば中途半端な性能しか持たない多用途機はドイツ軍の機体と比較して特段に優れていたとは言えず、実際の戦場では損害を増やす一方であり、空においてはブレゲー社のルネ-ルデュックが開発したラムジェット機がハインケルのジェット機と入れ替わるように投入され技術力ではドイツに劣らぬこと示せたのが救いだった。その後フランスでは多用途機よりも用途が限定された専任の機体の多数配備論が主流となることになる。その間のつなぎとしてはイタリア海軍の航空戦艦に刺激を受けて、水上機母艦用にウィボー社の開発していた水上戦闘機が陸上機に改造されて配備された。


しかし、多用途機構想が完全に消滅したわけではなく、特に空中指揮機という発想はのちに早期警戒管制機構想に影響を与えることになった。


だが、いくら機体がイギリスあるいはドイツに劣っていたとしても、それでもフランスが空において重要な役割を担っていたことには変わりなかった。それは機体そのものではなくそれを動かす燃料の分野においてだった。フランス国立高等工芸学校の首席卒業者であるウジェーヌ-フードリーによる接触分解の実用化とその後の1928年の接触分解による高オクタン価燃料精製に関する特許の国有石油会社であるフランス石油への譲渡によりフランス石油による高オクタン価燃料の独占供給体制が構築されていたことから、少なくとも燃料という分野においてはアメリカやドイツよりも圧倒的な優位にあった。


結局、セダンの戦いはドイツ軍の突破を許さなかった点でイギリス、フランス側の勝利と言えたが、ロシア救援のための備蓄をすり減らし、本来予定させた攻勢をとん挫させたという意味ではドイツ軍の勝利であった。現にその後、東部戦線ではドイツ軍がロシア軍を押し切る形で前進を続けることになる。


一方そのころ極東でも新たな戦いが始まっていた。アメリカに占領されていた大清帝国台湾府に対する大日本帝国陸海軍による奪還作戦だった。

フードリーが1928年に接触分解による高オクタン価燃料精製に関する特許をフランス石油に譲渡(売却?)しようとしたのは史実ですが、史実では何らかの理由で折り合いがつかなかったために譲渡せず、結局渡米することになってしまいました。もし、譲渡していたら多少は歴史が変わったのだろうか…

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