第256話 ミラノのデモとラホールの会談
1937年3月6日 イタリア王国 ロンバルディア ミラノ
「フランス及びその同盟国に対する兵器供与反対」
「首相は即刻辞任せよ」
イタリア北部の工業都市であるミラノでは、労働者や一般市民たちが中心となってデモを行なっていた。
そしてそのデモに対して解散を呼びかける警官たちもどこか及び腰だった。
始まりは数週間ほど前だった。イタリア各地で首相であるヴィットーリオ-エマヌエーレ-オルランドをはじめとした政界に関する怪文書や流言飛語が飛び交い始めたのだった。後の歴史家によればドイツの情報部が作成したらしいとされるそれについて、当初は多くの者は無視していた。そんなものは日常的なものだったからだ。
しかし、だんだんと内容は過激さを増していった。
特にフランス共和国との歴史的な和解の裏で多額の金銭がマフィアのファミリアに送られ、その意を受けてオルランドが動いていた事が"事実"として書かれていた事はもう1つの未回収のイタリアともいえるサヴォイア、ニッツァ、コルシカ島、チュニジアを汚いカネで売り渡したとして国民の反発を招き、議会ではオルランドに対する追及が相次ぐようになった。未回収のイタリアを取り戻した英雄の名声は失墜したのだった。
実際にはオルランドがその権力基盤固めと維持においてマフィアの力に頼ったのは事実だが、フランスとの和解についてマフィアが影響を及ぼすような事は無かったとされる。しかし、マフィアとオルランドの強いつながりが知られていたからこそこの"事実"は非常に信憑性のあるものであり、イタリア各地でデモや暴動が相次いだ。政権は直ちに断固とした鎮圧を命じたが、その成果はなかなか上がらなかった。
しかし、そうした反オルランド運動を組織した者たちにしても、ただの正義感だけで動いているのではなかった。ここミラノの労働者たちを組織しているのは、地下に潜った社会主義勢力であり、南イタリアではマフィアの台頭で割を食ったナポリのカモッラ、カラブリアのヌドランゲダといった他の犯罪組織であったとされる。要するに自分たちの活動にとってオルランド政権が邪魔だったから、反オルランドの活動を組織していたのだ。そうした裏事情は政府も熟知しており、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世自らがオルランドの罷免を否定する演説をラジオをで行ったが、逆に大衆の反発を招き、更に反オルランド活動を激化させるだけに終わった。
さらに、これらの活動に対し国外からの"支援"が行なわれた。支援を行なったのはアメリカ合衆国…に拠点を置くコルシカ島出身の犯罪組織ユニオン-コルスだった。ニューヨーク市長時代からハーストとの深いつながりで知られる彼らは、本来イベリア半島で蜂起した反政府勢力に送られるはずだった兵器の一部やさらには、フランス本土での不正取引で入手した兵器を反オルランド組織にわたしていった。この中には皮肉にもイタリアからの支援としてフランスに送られたものも含まれていたとされる。
こうして劇的な和解を成し遂げたはずのイタリアは混沌としていく事になる。
1937年4月17日 イギリス領インド帝国 パンジャーブ州 ラホール
パンジャブ大学で数学の学位を取得したのち、本国イギリスのケンブリッジ大学で自然科学、東洋学の学位も取得した数学者であり、またイスラームの科学的解釈を目的とする注釈書を執筆するなど多くの活動で知られるイナヤトゥラ-カーン-マシュリキはこの日イスラームホージャ派の指導者であるアーガ-ハーン3世に会っていた。
「学士殿、運動の方はどうかね」
「順調です。ムスリムもヒンドゥーも我らの旗のもとに集っています。ただ、南インドとベンガルでは依然低調ですが」
「やはりか…」
マシュリキから報告を受けたアーガ-ハーン3世は渋い顔をし、それをマシュリキは訝しげな顔をしてみていた。
マシュリキとアーガ-ハーン3世のいう運動とはカクサー運動という団体の事だった。宗教やカーストに関わらず社会に対して奉仕することを目指してマシュリキが1930年に創設したものであり、1929年4月19日のモーハンダース-カラムチャンド-ガーンディー暗殺によって精神的指導者を失い、分裂傾向が強まる一方のインド国民会議にかわって、多くの一般大衆からの支持を得ていた。
また、1933年のオーストラリア騒乱に際しては英領インド軍の派遣をめぐって国民会議が一致した結論を結局最後まで出せなかったのに対して、早くからイギリスへの支持を表明して、総督府からの信頼も勝ち取っていた。
もちろんその後の第二次世界大戦勃発に伴う戦時体制への移行についても、社会主義的な傾向を持つ知識人が多かったことから総督府に睨まれがちだった国民会議とは対照的に積極的に協力し、全インドの為としてインド各地で軍志願者の募集や社会福祉活動に従事した。
「南インドは例の自尊運動、ああ、今は正義党と名前を変えたのでしたか…の支持者が多いからだとしてベンガルは…」
「問題はそちらだよ。知っての通りかの地にはイギリスの利権が多いし、歴史的に見てもイギリスとの関わりは長い、イギリス人の中には将来このインドに自治を認めたとしてもあそこだけは何とか維持したいという人間も少なからずいる。その上、今回の大戦だ。知っているかねウッタルパラにモーリス自動車が新しい工場を作るらしい。ロシアや清国に供給するための戦車工場だそうだ。そしてベンガルの人間はそれを批判するどころか…」
「むしろさらに利用しようとしているというわけですか、経済的に発展すれば我々より優位に立てますからね」
「そうだ。だが、だからといってイギリスの支配を批判する訳にもいかん。その為にもまずは我々の忠誠を国王陛下に示さねばならん」
アーガ-ハーン3世の言葉にマシュリキは本当にそれだけでいいのだろうかと考えたが答えは出なかった。
一見、戦争特需によってそれなりの繁栄を謳歌しているように見えるインドでもその内部では様々な思惑があり、その政治的状況は混沌としていたのだった。
カクサー運動の創設は史実ですと1931年ですが、こちらではガーンディーの暗殺が早まった影響もあり1年ほど早まっています。




