第253話 立ち上がる大衆と長引く戦い
1936年8月26日 大清帝国 台湾府 台北
台北市内の下水道を歩く3人の男がいた。1人は日本人でもう2人はイギリス人だった。
日本人は台北での抵抗運動指導者である東亜同文書院台北校校長栗林忠道、イギリス人は抵抗運動を行なう者たちへの指導の為に派遣されてきたサー-ロバート-エドワード-レイコック少佐と芸術家志望であった事から第2次ジャポニズムの影響もありイギリス軍では珍しい日本語学習者であった事から、その通訳に任じられたアーチボルト-デイヴィット-スターリング少尉だった。
「それで救援はいつ来るのですか、正直これ以上の活動は難しい」
『インドにも、本国にも要請はしているがやはり難しい。我々としては台湾の防衛に全力を注ぐべきだと考えているが…未だにオーストラリアに未練を持つ人間が多すぎる』
スターリングを通じてレイコックの言葉を聞いた栗林は何も言う事が出来なかった。すでに多くの教え子の死を見てきた栗林にはこれ以上の死は耐えられるものではなかったからだった。1936年5月26日に開始された台湾戦は、早期攻略が可能とするアメリカ海軍及び海兵隊の予想を裏切り長期化し、3カ月がたった今でも続いていた。
その一番の理由はアメリカ側が敵である清国という国をよく理解していなかったからだった。台湾には漢民族の他にまとまりに欠ける先住民や日本からの入植者などもあり、先住民たちは文化的、歴史的な問題で、日本人は経済的な軋轢で、それぞれ対立関係にあり、それを利用すれば容易にアメリカが支持を獲得する事は容易であったはずなのだが、実際には全く真逆な事が行なわれた。
アメリカ人たちは儒教、仏教、神道、そして先住民たちの信仰を全て異教とみなし、占領した場所でそれらにまつわる物を破壊して回った。その後は家族は引き裂かれ子供は"アメリカンスクール"と呼ばれる仮設の教育施設へ強制的に入れられ、親たちからは隔離された。アメリカ人たちはかつてのフィリピン統治においてキリスト教徒のフィリピン人が比較的早期にアメリカの統治を受け入れ、また、友好的であったのに対してムスリムであったモロ人が繰り返し反乱を起こしたことに触れて、友好の前の教化を基本方針として採用していたからだった。こうした方針に対し、反抗した者たちはMPによって拘束され、多くは"収容所"に入れられたがそこでの食料供給は"日本海軍による通商破壊"のために滞っており多くは餓死する事になった。
台湾における占領統治の特徴としては同時期のカナダ地域のようなアメリカへの協力を促すようなものではなく、徹底的な再教育を中心としたものであったのが特徴だった。すなわち、カナダに対しては共に立ち上がり戦列に加わる市民を求めたのに対し、台湾においては出自や宗教に拘らず求められていたのは、ただ隷属する事だけだったと言える。こうした過酷な統治は多くの抵抗運動と連帯意識の形成に役立ち、清国も上海急行とよばれる、小艦艇や徴用した漁船やジャンク船などを使って物資供給という形でそれを助けたのだった。レイコックとスターリングもそうした支援物資に紛れて台湾の地を踏んでいたのだった。
こうした抵抗運動をはじめはあまり深刻に捉えていなかったアメリカ側も飛行場や鉄道、陸揚げ中の物資などへの攻撃が相次ぐようになると、本格的な掃討作戦を実施するようになり、それには当然、化学兵器の使用も含まれていた。こうして台湾での戦闘はさらに激化していく事になる。
1936年9月4日 ロシア帝国 キエフ県 キエフ
ドイツ人民軍の越境とともに始まった東部戦線では当時のロシア軍の主力が極東方面に向けられていた事もあり、現地のウクライナ人などを武装させて民兵として動員していたのだが、その民兵たちはドイツ軍が近づくと次々と投降し、ロシア軍に対して銃を向けたのだった。これに対して激怒した皇帝アレクセイ2世は、時間を稼ぐための焦土戦術を兼ねてウクライナでの大規模な破壊作戦を実行に移したのだが、これがウクライナ人達をさらなる蜂起に駆り立てた。当然のごとくキエフでも抵抗運動が始まり、それを鎮圧すべくロシア帝国親衛隊が増援として派遣されていた。
そんなキエフの町で狙撃銃を持ちながら待機する一人の男がいた。シモ-ハユハ、フィンランド大公国出身の親衛隊所属の狙撃兵だった。そんなハユハは憂鬱そうに溜息を吐いた。
ロシア人のために戦うのが心底嫌になっていたからだった。元々、親衛隊に志願した理由にしても8人兄弟を養わねばならぬ家族の生活を少しでも楽にする為だった。ハユハはラウトヤルヴィの農場に生まれたが、1921年のラーヴル-ゲオルギエヴィチ-コルニーロフ率いるフィンランド大公国へのロシア軍による懲罰作戦、1927年のロシア内戦によって農場は荒れ果てており、生活の為には非ロシア人であっても出世の道が開けると喧伝されていた親衛隊に志願するしか道が無かったため、親衛隊に所属しているのであって、アレクセイ2世への忠誠心やユーラシア主義という訳の分からない思想の為では断じてなかった。
(とはいえ、今さらやめられないしな)
ハユハはウクライナ人たちに捕まった親衛隊兵士への私刑を嫌というほど見ており、とても投降できるとは信じていなかった。つまり、ハユハにできるのは戦う事だけだった。
奇妙なのはいまだにドイツ人がウクライナ西部に留まっていることだった。どういう訳か知らないが、こちら側に再編成の時間を与えてくれているのはロシア軍からすれば救いだったが、ハユハにとっては無駄に苦しみが続いていくことになった。
ドイツ自由社会主義共和国はジトーミルにウクライナ人民政府を設立したが、直ぐに東に動こうとはしなかった。ドイツが望んでいたのはウクライナ人独自の民族主義組織とロシア双方の弱体化だったからだ。ドイツはかつてのウクライナ支配が崩壊したのは自らの統治の過酷さと傲慢さが理由ではなく、ウクライナ人の"スラヴ的な怠惰と卑怯さ"が原因だと"分析"していたため、その独自性を叩きつぶす必要があった。
しかし、あくまでも一時的な作戦であったはずのこの作戦はウクライナの領有を狙うポーランド閥からの突き上げもあり、占領方針が中々定まらなかったこととドイツ軍のロシア侵攻を好機と勘違いしたフランス軍の攻勢に対処する事を強いられた事もあり、未だに継続されていた。
立ち上がった者たちの多くの犠牲にも拘らず戦いは長引く一方だった。




