第250話 第二次世界大戦<3>
第二次世界大戦の一つの転換期となったアメリカ合衆国による日本本土攻撃だが、その影響を各国が理解するには時間がかかった。アメリカは比較的日本に近いグアム島を一時奪われることまでは想定したが、アメリカ人の多くは最終的にアメリカが勝利する事に対して何ら疑いを持っていなかった。
ヨーロッパ列強各国はその参戦を歓迎したが、やはり大局的には何の影響も与える事は無いだろうというのが結論だった。彼らにとって最も倒すべき敵は例え体制が変わっても、かつてと変わらぬ強さを発揮するドイツ人であり、それと同時ぐらい重要なのは戦後のヨーロッパにどのような秩序を作るかという事だった。
そしてその為には新たな兵をかき集める必要があった。
特にイギリスでは各地に点在する植民地からヨーロッパ、オセアニア、カナダへと送られていった。極寒のカナダはともかく、ヨーロッパやオセアニアでは、アフリカ、アラブ、英領インド帝国から派遣されてきた兵士たちが多数従軍した。ヨーロッパでは故郷とはまるで違う寒さに慣れず震えながらドイツ軍と戦ったが、オセアニアではその過酷な砂漠や熱帯の密林をものともせずに頑強な抵抗を続けアメリカ軍とオーストラリア連邦軍を多いに苦しめた。
寧ろ彼らの敵は内側にあった。
オーラリア植民地政府は自らが劣勢であるにも拘らず、インド兵やアフリカ兵はただの一人も上陸させまいと譲らなかった。これは完全に彼らの偏見に基づいたものだったが、それでも彼らは"白人の戦争"と自らの戦いを規定しており、イギリス本国政府の決定すら跳ね除けようとした。
オーラリア植民地政府の自身の見解としては未だアメリカが海上封鎖にうってこない以上、まだ戦いは独力で継続可能というものだった。
その理由としては日本本土攻撃後の報復として行われた帝国海軍による太平洋そしてアメリカ本土西海岸での無制限潜水艦作戦による混乱が理由であり、オーラリア自身の戦争努力によるものではなかったのだが、ともかく、このようなオーラリア植民地政府の頑なな態度はイギリス政府の頭痛の種となるのだった。
一方、もう一方の主力であるフランス共和国は敵は3方向にいると考え更なる戦力を増強すべく、積極的に植民地に動員を呼び掛けていった。
3方向とは北フランスに迫りくるドイツ軍、イベリア半島でアメリカからの支援を受けて蜂起したポルトガルの共和派が、スペインの社会主義者、そしてスペインで蜂起した旧政府派とその背後にいると思われた元国王アルフォンソ13世の亡命先だったイタリア王国だった。
このうち最後のイタリアをめぐってはイギリスが仲介して何とか収拾を付けようとしたが、フランス、イタリアがこれを共に拒否し、しばらくの間緊迫した状況が続く事になり、それに合わせて特にアフリカにおいて動員というよりは収奪に近い勢いで、多くの人間が前線へと送られる事になった。これに対する反発は強かったが、力で抑え込む事でこれを無理やりに抑え込んだ。その不満は大きなものだったが植民地政庁は見て見ぬふりをし、パリはそもそもわかろうともしなかった。
そのころ、極東社会主義共和国では日本による通商破壊によって、頼みの綱であったアメリカの輸送船団が甚大な被害を受けた事から、冬の為、各地でのロシア帝国軍との戦いは小康状態ながら、次の春まで持ちこたえられるか厳しいと考えて"生存の為の作戦"を開始した。これは特に警備が手薄な朝鮮王国への越境による略奪だった。一部ではロシア軍将校の遺体から略奪した金時計と牛を交換し平和的に"作戦"を終えたいう話も残っているが多くはただの略奪だった。
そしてこれが、朝鮮にとっては一大事だった。朝鮮はこれを極東の南下の前兆として見たのだった。ロシアとの戦争によって疲弊している極東が南下するなどという事はどう考えてもあり得ない事だったが、朝鮮は隣国である日本や大清帝国に対して救援を求めた。
日本はかつての陸海軍や民間人が共謀して国家転覆を企てた10月事件の首謀者の一人だった北輝次郎(朝鮮に渡った後は改名して北一輝と名乗った)をはじめとする人材を多くかくまっていた事から彼らを引き渡す事を支援の見返りとして求めたが、朝鮮からすれば多少の問題はあれど近代的な高等教育を受けた人材は貴重であり、朝鮮側は応じず交渉は決裂した。
一方、支援要請が行なわれたもう一つの国である清国は乗り気だった。
これは、アメリカとの戦闘に敗れたのは主に海軍であり、陸軍は未だ一度も敗北をしていなかったどころか戦闘すら経験していなかったからだった。ロシアとの戦争において消耗し、アメリカからの支援も友邦日本によって遮断されつつある極東相手ならば容易に勝つ事が出来る、と主張し、極東に対する奇襲攻撃を行なう様に求めた。
しかし、ロシア側はイギリスを通じての交渉において清国の参戦に否定的な見解を示した。
理由としてはかつて清国の領土であった沿海州の奪取を清国が狙っているのではないかという懸念があり、実際、清国の内部にもそのような主張をする者がいた為、完全に否定する事も出来ず、交渉はまとまることはなかった。
こうした清国の動きを受けて、ロシア側も清国より早く極東を屈服させるべく攻勢準備を急がせたが、ドイツ軍によるロシア侵攻が開始されたのはそうした準備を行なっていた最中の1936年3月25日の事だった。




