第246話 "新幕府"の成立と大戦前夜
1935年2月9日 大日本帝国 東京府 尾張徳川家侯爵邸
「なるほど、政友会も進歩党もだめですか」
「彼らはアメリカにしてやられてばかりでしたからな」
「それで我々の待望論ですか…武藤先生には感謝しなくてはなりません」
「待望論というよりは押し付けれたと言った方が良いかと…しかし、殿は随分と武藤先生を買っておられるのですな」
「石原さん、例え理由が何であれ、我々がこうして現実政治にかかわるなどつい10年ほど前に考えられない事ですよ。それと武藤先生は我らの味方であって敵ではありませんよ。さしずめ和製ハーストとでも思っておればよいのです」
「すると我々は、ルーズベルトかティルマンか、はたまたミッチェルですか…暗殺死は勘弁したいですな」
「それは、たしかに…ですが最悪は帝国そのものの滅亡を意味します。気を引き締めていかなくては」
邸宅の主であり尾張徳川家の当主である徳川義親は、京都出身の実業家である石原広一郎の言葉に対して、くすりと笑った後で神妙な顔つきになって告げた。
徳川は貴族院議員の中でも一目置かれる存在だったが、それはかつての御三家の家柄である尾張徳川家の当主でありながら貴族院改革論を主張する改革派議員であったことが原因だった。やがて改革を求める徳川が新民本主義運動に引かれるようになるまで時間はかからず、いまでは新民本主義運動の内部では創始者である茅原崋山に次ぐ影響力を持つまでになっていた。
そんな、徳川に接近してきたのが、仏領インドシナと蘭領東インドへの南方移民との結びつきによって財を成した石原と同じく実業家でありながら、近年では時事新報の編集者として政友会や進歩党とつながった財閥の汚職追及を積極的に行なう事で人気を博している武藤山治だった。
石原と武藤は内閣審議会への新民本主義運動の参加を改革への一歩と考えていた茅原を批判し、帝国議会においてその勢力を伸ばす事で改革を成し遂げようと考えており、そのため貴族院議員であり、知名度では茅原にも劣らない徳川を指導者として据えようと考えていたのだった。
一方、そうした新民本主義運動の内部での混乱は政友会並びに進歩党にとっては好都合であり、進歩党の安達謙蔵が提案した協力内閣構想に政友会の重鎮である原敬が賛意を示したため、床次竹二郎内閣が成立したのだが、おりしも同時期にオーストラリア騒乱とシベリア侵攻が立て続けに起こり、日本は対応を迫られる事になったが、もともと新民本主義運動への対策として内政上の理由で誕生した内閣であり、こうした国外の騒乱に対してどのように行動するかなどは考えられておらず、外務大臣であった内田康哉はアメリカ合衆国を念頭に、
『例え、国を焦土としてでも帝国の主権と独立は守られるべきであり、そのためには帝国陸海軍は必要なあらゆる行動を取る』
と勝手に宣言した。このいわゆる焦土演説と呼ばれる陸海軍に対して何の権限も知識もない内田の発言は陸海軍からは顰蹙をかい、床次をはじめとする閣僚に衝撃を与え、後日内田自身が釈明をする事になったが、この焦土演説はウチダドクトリンとして、特にアメリカで研究される事になる。
これはアメリカがかつてイギリスとの間で発生した外交的事件であるキャロライン号事件において先制自衛権の行使を理由に攻撃を受けたという歴史的教訓から、日本軍による先制的自衛権行使を理由にした攻撃もまたありうるかもしれない、と警戒した為だった。
しかし、このウチダドクトリンを警戒したからといってアメリカの動きが変わる事は無く、依然として極東社会主義共和国への援助は続いており、日本側も警戒を続けていた。
インディギルカ号事件が起きたのはそんなときだった。
インディギルカ号は元の船名をレイクガルバというウィスコンシン州マニトワックで建造された商船だったが極東に売却された後にはインディギルカと改名されたうえでコルィマ金山への囚人輸送船として使われていた船だった。
1934年12月12日、インディギルカ号で囚人による反乱が発生すると、極東海軍はその指揮下にあったアメリカ義勇艦隊にその鎮圧と拿捕を命じた。これは極東海軍といってもかつてのロシア帝国海軍時代の極東艦隊時代の艦艇の多くは錆びついており、辛うじて動けるのは魚雷艇や商船を改造した漁業監視船程度であり、さらにそれらを操る水兵も海軍歩兵部隊としてロシアとの戦争に駆り出されている有様であり、アメリカ義勇艦隊しか動けなかったからだったが、これに対して極東とアメリカに対して警戒感を強めていた日本側は帝国義勇艦隊に出撃を命じた。
この帝国義勇艦隊はロシア帝国海軍の補助組織であった義勇艦隊をモデルに創設された組織であり、平時には商船として運用し、戦時には通商破壊や通商護衛用の船舶として運用できるような補助艦艇を運用するための組織だったが、近年では海上警備も担うようになっており、日本側の領海に接近していたインディギルカ号の保護とアメリカ義勇艦隊への牽制にはうってつけだと考えられた。
こうして名前は似ているが性格は全く異なる組織がオホーツク海でインディギルカ号を挟んで対峙していたが、やがて、衝突した。
結果としてインディギルカ号は沈没し、日米双方の艦艇はそれぞれ軽微な損傷を受けて撤退したが、その後の動きはまるで違った。日本側は樺太沖某重大事件の名で極東海軍との間で小規模な衝突と報じるのみだったが、アメリカでは"記録映画"とされる映画が大々的上映されたが、インディギルカ号を日本側が不当に拘留し、それにたいしてアメリカ義勇艦隊が救援のために為に駆け付けるも日本側によってインディギルカ号が証拠隠滅の為に撃沈されるという、事実とは異なったものであり、日本側はこれに対して抗議をしたが、この"記録映画"は世界に広められ、日本側を擁護するのは極東と依然戦争を続けていたロシアと同盟国であったフランス共和国、そして同じアジアの国家である大清帝国のみだった。
このインディギルカ号事件をきっかけに床次協力内閣の中では強硬派と穏健派が対立し、遂にその争いに疲れ切った床次が心臓病を悪化させて病死すると内閣自体が空中分解したのだった。
その後任として選ばれたのが徳川だったが、徳川家からの内閣総理大臣の就任は初めての事であり、右派団体によって新たな幕府の創設を意味するとして暗殺未遂事件が起こるほどだったが、それらは警視隊によって防がれた。
しかし、この新たな幕府という言葉は、諸外国においては文字通りかつてのサムライによる軍事政権の帰還としてとらえられ、中でもアメリカは日本の戦時体制への移行として捉え、日本の同盟国であるフランスとアジア主義的な感情から準同盟国関係にある清国の同盟国であるイギリスとの開戦に備えて、ドイツ自由社会主義共和国に対し対仏英開戦を要請し、大規模な援助を約束したが、これはまさに新体制となったドイツを陰から支配するエーリヒ-ルーデンドルフの希望に沿う物であり、独米両国の思惑は一致し、アメリカはイギリス主導の自らへの包囲網が機能しない内での対仏英開戦を、そしてドイツは欧州列強の注目が植民地に集まっている内にフランスをはじめとする反ドイツ勢力の完全な打倒を目指し始めた。
こうして、オーストラリア、極東、南米、そして太平洋において高まった緊張は、最後に欧州において2度目の世界大戦を引き起こす事に繋がったのだった。




