第243話 ブーゲンビル島問題
1934年1月13日 オランダ王国 デン-ハーグ 首相官邸
「そうか、では、イギリスは了解したか」
「はい、首相閣下。しかし、これではフランスを刺激する事になりませんか」
「だがな、先にあの島について言いがかりをつけてきたのはフランスだ。国民が文字通り血を流して得た対価を引き渡す事などできるものか」
オランダ首相ヘンドリクス-コレインはきっぱりとそう言った。
コレインの言った島とはニューギニア島にほど近いブーゲンビル島のことだった。
ブーゲンビル島はかつてはドイツ領であったが、第1次世界大戦の講和会議の際にオランダに引き渡されていたのだが、これに納得していない国があった。オランダの隣国だったフランス共和国だった。フランスはブーゲンビル島を自国に引き渡された太平洋上の島嶼の一つであると主張し、対するオランダはニューギニアの一部であると主張した。これらの主張はニューギニア島と太平洋の諸島が共にドイツ帝国保護領として同一の行政区域に置かれていた為であり、かつて、植民地各地への遠征に従軍し第1次世界大戦でも従軍した経歴を持つコレインはフランスへの返還を反対する議員連盟の1人だった経歴を持っていた。
とはいえ、この領有問題はそこまで大きな問題になる事も無かった。なぜならば、フランスもオランダも戦後しばらくはドイツ帝国、そしてその後にはドイツ自由社会主義共和国への対応を考えなければならなかったからだった。しかし、ここ最近はオーラリアの独立運動から始まったオーストラリアでの騒乱に伴い太平洋の島嶼部に対する関心が高まっており、その中でこのブーゲンビル島領有問題が蒸し返されたのだった。
もちろんフランスが開戦に向けて動くことはなかった。そんな余裕も無ければ意思も無かったからだ。しかし、相対的に弱国であるオランダ側はフランスが蒸し返してきた、という点に過剰反応し、かつてコレインが議会に提案した際には否決された1924年艦隊法と同様の物を今度は大差で可決した。これが、前年のことであり、後に1933年艦隊法とよばれるものだが、興味深いのはこの時オランダ共産党が賛成票を投じた事であり、オランダ共産党としてはツィンマ―バルト綱領の下で自国の勢力圏である東インドの一部であるブーゲンビル島を守るべく、当然の策を講じたまでであったが、これが逆に反社会主義政策をとるフランスのタルデュー政権に不信感を抱かせる事になり、フランスとの交渉は難航していた。さらにそこにあらわれたのがアメリカ合衆国だった。
ハースト政権は自国の石油産業の進出と引き換えにオランダに大規模な援助を申し出たのだった。
全体的にオランダにとって利のある取引だったが、オーストラリアでアメリカから来た義勇兵に苦しめられているイギリスがこれに反発した。結局アメリカ企業の進出は認めるが、軍事基地化などは一切これを認めず、またオランダ自身による軍備拡張についても最小限のものに努める代わりに第3国から攻撃を受けた場合にはイギリスが防衛のために必要な兵力を提供するとの秘密協定がむすばれたのだった。
アメリカはオランダの態度の急変によってシンガポールとオーストラリアの間にくさびを打ち込めなかったことについて不満ではあったが、それでも経済的な進出については了解を得られたことに関しては概ね満足していた。長年にわたり阻まれてきた東インドという資源の宝庫にようやく進出できるようになったのだから当然だった。
一方、フランスは不満であり、また、不安でもあった。
太平洋地域にはもともと大規模な兵力など駐留させておらず、せいぜいが通報艦や駆逐艦程度のもので、これにアメリカと本格的に対峙するようにもとめるのは酷というものだった。
何しろ相手はイギリスに次ぐ戦力を擁するアメリカ海軍であり、プロヴァンス級の後継である45センチ砲搭載艦であるノルマンディー級が設計変更の為に建造遅延を重ね、ようやく就役し始めたばかりのフランス海軍には荷が重かった。
こうして、フランスは別の手を模索する必要に迫られた。そこで白羽の矢が立ったのが大日本帝国だった。日本で反極東社会主義共和国、反アメリカの機運が高まっている事はすでに駐日大使館より報告がなされており、フランスとしてはこれを大いに利用する事にした。
日本に対し大規模な援助を申し出たのだった。
といっても、フランスの主敵はあくまでもドイツであり大規模な兵力をヨーロッパから抽出する事は出来なかった為、経済的、技術的なものにとどまったが、それでも日本側が得た物は大きかった。
まずフランス各地のユダヤ系銀行から大規模な融資が行なわれた。これまでも例えば関東大震災の時に、似たような事例はあったが、こうした融資に対しフランス政府が厳しい視線を向け、抑制策をとっていたのに対し、今回は特に制限を設けなかった。こうしてフランスから多くの融資(ユダヤ系各行からすれば本国の反社会主義化に伴って勢いを増す反ユダヤ主義からの避難という側面の方が強かった)が日本に対してもたらされる事になる。
さらにフランスの企業各社やフランス国営の兵器廠からの技術者たちが相次いで日本入りした他、戦車や自動小銃に加えて、急速に進化する戦車に対するフランス砲兵の切り札とされフランス軍内でも知るものは少なかった装弾筒付徹甲弾の実物や、ノルマンディー級に代わる次期戦艦、仮称プロヴァンス級代艦用に造られていた50口径45センチ砲すら持ち込まれていた。
一方、東北帝国大学の八木英次博士と宇田新太郎博士の発明した八木-宇田アンテナや帝国海軍における潜水艦の集中運用の研究などはフランス側の興味を引き、それぞれ本国に詳細な報告者が送られたが、次世代の防空の要として積極的に採用された八木-宇田アンテナとは対照的に潜水艦に関しては半ば無視される事になった。
しかし、こうしたフランスの動きは逆にオランダの更なる警戒を招く事になり、両国の関係は悪化の一途をたどった。さらにフランス、オランダ間の対立は共通の隣国であるベルギー王国にも飛び火しようとしていた。北のオランダ系言語を話すフラマン人と南のフランス系言語を話すワロン人がそれそれオランダとフランスの側に立って衝突を繰り返すようになってしまった。しかしこうした動きは突如として中断を余儀なくされる。
1934年5月1日、フランス、オランダ、ベルギーの共通の隣国であり、仮想敵国であるドイツにてクーデターが発生したからだった。




