第240話 暗殺再び
1933年3月6日 アメリカ合衆国 イリノイ州 シカゴ
その日シカゴでは1932年の大統領選を制したアメリカ合衆国大統領であるジョン-パーロイ-ミッチェルがシカゴ市長のウィリアム-ヘイル-トンプソンと共にパレードを行なっていた。
オープンカーから顔を出しながらミッチェルは常に笑顔を振りまいていたが、頭の中では考えを巡らせるのに忙しかった。
(前回の選挙では勝つには勝ったが、死に体の民主党と共和党はともかくとして、やはり国民党は大きな脅威だ。特にあのウォーカーという男…最近ではハーストの影響力にも陰りが見えてきている。例のスキャンダルの事もあるしやはり副大統領に据えたのは間違いだったのか、いや、かといってここで新進歩派の誰かから副大統領を選べば反発は大きいだろう…ウォーカーに負けたテッドはあてにならないし、せめてクエンティンがもう少し歳をとってくれていれば副大統領として据えるのに問題が無かったのに)
1932年の大統領選挙戦では共和党及び民主党から離脱した議員らが1924年に結成した国民党が愛国党と接戦を繰り広げた。これは結党したばかりでまともな選挙が行えなかった24年の選挙戦、党としての体制を整えて挑んだものの大差を付けられて敗北した28年の選挙戦と同じく愛国党の勝利が確実とされていながらも国民党が愛国党と接戦を演じて見せたという事実は、党内からの支持は得られなくとも国民からの支持を力に政権運営を進めてきていたミッチェルからすれば大きなショックだった。その上、勝利を確実にすべくハイラム-ジョンソンに代えてウィリアム-ランドルフ-ハーストを副大統領に指名した事が選挙中に元愛人であった女優マリオン-デイヴィスによる暴露本の出版によって、逆にミッチェルの足を引っ張る形となってしまったことも手伝ってミッチェル政権は支持率は過去に比べれば低調なままでのスタートとなった。
しかし、国民党の勢力が伸びている事を示す兆候は以前からあり、その代表例が29年のニューヨーク市長選であり愛国党側はセオドア-ルーズベルトの息子であるセオドア-ルーズベルト-ジュニアを候補としたのだが、楽に勝てると思われていた選挙戦は国民党のジミー-ウォーカーの圧倒的な勝利に終わっていたのだが、ミッチェルはルーズベルト-ジュニアの能力不足のせいであるとして、末っ子のクエンティンに期待を寄せるようになっていた。
とはいえ、全てが悪い事ばかりということでもなかった。今回の選挙戦においてはそれまでミッチェルに対して何かとつけて反発していた党内から多くの賛同者が出ていたからだった。
賛同者たちの多くは新進歩派と呼ばれる新しい世代であり、ルイジアナ州のヒューイ-ロング、モンタナ州のバートン-ウィーラーやカリフォルニア州のアプトン-シンクレアといった新進歩派たちはミッチェルの政策を積極的に支持していた。
(まったく、最後になってようやく支持基盤が出来るとは…)
ミッチェルは皮肉気に笑ったが、ミッチェルの思考はそこで永遠に止まる事になった。なぜならミッチェルの頭はライフル弾によって撃ち抜かれ、即死していたからだった。
「クソ、なんてこった。どうして隣に当たらないんだ」
アントン-セルマックは大統領の頭が吹き飛ぶのを見て悪態をつきながら、構えていたカナダ製ロス小銃のボルトを引き、また戻し、再度発砲した。
セルマックの狙いはミッチェルではなく隣にいたトンプソンだった。オーストリア-ハンガリー帝国からの移民だったセルマックはシカゴ市警の書記官や廷吏などを経て、市議会議員へと立候補したがトンプソンによる妨害によって落選していた。
シカゴは当時のアメリカ政界では珍しくアイルランド系が支配的な地位を占める街であり、その理由はシカゴが多種多様な人々で構成されている街だからだった。大陸ヨーロッパ出身の移民たちは出身国、地域ごとの対立を引き摺っており、少数派だった黒人たちは白人たち全てを信用していなかった。そのため、敵対者の少ないアイルランド系が優位を占める事が出来たのだった。セルマックはその支配を終わらせようとして各地のコミュニティを練り歩き、粘り強く説得を試み、アイルランド系以外の全ての人々を結集させようとしたのだった。
トンプソンはこの動きに対してドイツ系にはボヘミア系のセルマックが支配層となればこれまで築き上げてきたものがすべて奪われるといい、ポーランド系にはユダヤ系の支援を受けているといい、逆にユダヤ系にはポーランド系の支援を受けてユダヤ人の迫害を企んでいるといい、イタリア系にはプロテスタントであるセルマックが市長となればカトリックに対する迫害が始まるというように、セルマックに関するデマをばらまく事で対抗した。そうする事でそれまで通りの分断を維持しようとしたのだった。それでも靡かぬ者たちにはトンプソンと同じアイルランド系ギャングであるダイオン-オバニオンが"圧力"をかけた。
そしてセルマックに対する最後のとどめとなったのは人権協会の構成員の一人であるという告発がなされた事だった。人権協会は1924年に結成されたものの直ぐに解散させられたアメリカ初の同性愛者の権利を訴える団体であり、結局証拠不十分となったもののこの告発でセルマックの信用は地に落ちたのだった。
セルマックもこれらの仕打ちには堪えるものがあり、トンプソンの暗殺を考えるようになり、この日遂に実行に移したのだった。
ミッチェルの暗殺によって、アメリカは混乱に見舞われる事になった。
何しろ新たに大統領となったハーストはスキャンダルの渦中におり、その支持はミッチェルに対するものよりもさらに低いものとなったからだった。34年に行なわれるはずの中間選挙では愛国党の惨敗との予測もでる中、取りあえずハーストにできることはセルマックが暗殺に使用していた銃がカナダ製であったことから、カナダに対し誹謗中傷としか思えない様な"抗議"を行なう事でアメリカ国民の留飲を下げる事だけだった。
無論こうした"抗議"はカナダ側の激しい反発を招き、カナダで操業するアメリカ系石油会社に対する規制強化などのカナダ化政策の実施を発表したが、これは石油産業を主力産業とするカナダ西部諸州の反発を招く事になった。
アメリカとカナダの対立はイギリスがカナダに肩入れする事でアメリカ対イギリスの対立となったが、そこにさらに追い打ちをかける事態が起きた。
4月8日の西オーストラリアのオーラリアとしてのオーストラリア連邦からの独立を決める投票において独立派が賛成多数で勝利した事に対するオーストラリア連邦政府による軍の派遣による騒乱の勃発と5月15日のアメリカ企業が多数進出していた極東社会主義共和国に対するロシア帝国の侵攻だった。




