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第24話 第一次世界大戦<4>

1908年1月12日の大日本帝国によるドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国への宣戦布告に対して、された側は特に気にも留めなかった。

それどころか、それを蛮勇と嘲笑った。何しろ東洋の小国が仮にも列強たる二国に噛みついてきたのだから、当然の反応だった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に至っては生意気な猿が人間に噛みついてきた、と公式に口にするほどだった。


もちろん、日本ではこうした態度に国民の怒りが爆発していた。特にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が日本人を公式に猿と嘲笑った事は、日本人にとって大きな屈辱と捉えられた。だが、列強という壁はまだまだ厚かった。


1908年5月1日、奇しくも先の海戦から1年後に行われた第二次ヘルゴラント海戦に日本は東郷平八郎率いる戦艦薩摩を旗艦とした遣欧艦隊がフランス海軍と共に海戦に参加した。

第一次ヘルゴラント海戦に参加していたロシア海軍は、ドイツ帝国の工作による国内情勢の不安定化により、満足な出撃及び整備が行なえる状況ではなかった為、比較的小規模な艦隊しか派遣していなかった。

この海戦において、日本海軍の薩摩とドイツ海軍のナッサウという初の弩級戦艦同士の対決が行われた。

遣欧艦隊旗艦となった薩摩は日本で最初の弩級戦艦というべき艦であり、フランス製12インチ砲を搭載した単一口径艦だったが、アメリカのサウスカロライナ級と同様に蒸気タービン技術が未熟なために、速度性能で劣るレシプロ機関を採用していた。そのため、速力を確保するために装甲を薄くしていた。

一方、ドイツ艦隊の旗艦であるナッサウは如何にもドイツ艦らしい艦であり、特に防御は同時代の艦よりもすぐれていた。


そして、この海戦において薩摩はナッサウとの砲戦において爆沈する事になる。後の調査によれば原因は速力確保のために装甲を極端に薄くした事と従来の海戦では考えられなかった予想外の大角度からの砲弾を受けた事、下瀬雅允海軍技師が開発し、日本海軍が採用していた下瀬火薬が誘爆した事とされている。


それでも幸運で知られた東郷の力か、薩摩の放った最後の砲弾はナッサウの艦橋を直撃し、大洋艦隊司令官ハインリヒ-フォン-プロイセンら艦隊首脳部を含む艦橋要員が全員死亡するというドイツ艦隊にとって予想外の事態も引き起こした。結局ドイツ艦隊は撤退を余儀なくされている。


しかし、この薩摩の爆沈は列強諸国にとって日本軍全体の能力について疑問を抱かせるものであり、日本としてはそれを払拭するために更なる兵力を派遣する事となった。


具体的には陸軍部隊の派遣だった。特に欧州派遣軍の活躍で勇名なのは白襷隊の活躍だろう。

それまでは、ある程度武器弾薬などの物資が補充された後に長時間の砲撃と共に攻勢を開始するのが普通だったのだが、日本軍はその盲点を突き、あえて短期間の激しい砲撃を行い、続いて迫撃砲や機関銃に支援された突撃部隊、通称、白襷隊を突入させてドイツ軍の塹壕を突破した。この事は日本国内外で偉業として語られる事となる。

この戦術は、その後ドイツ軍が前方の塹壕陣地の守りを薄くし、後方の塹壕陣地に主力部隊を置き、更にその後方に予備兵力を配置する戦法を取ったことで白襷隊の突破力は削がれるようになってしまった。そのため、連合国は塹壕突破のために新たな方法を模索する事になる。

また、日本軍が持ち込んだ迫撃砲は、その後連合国でライセンス生産されるようになり、更には敵国であるドイツやオーストリア=ハンガリーでもコピー生産が行われるようになった。


この欧州派兵をきっかけに、日本は一等国への血塗られた道をひた走る事になる。



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