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第239話 飛行場と単軌鉄道

1932年11月30日 大日本帝国 東京府 立川町 

「こうして実際に乗ってみると、鉄道というより飛行機のようだな」


元久留米藩主有馬頼萬の子であり、篤志家として知られる貴族院議員有馬頼寧はこの日自身が発起人を務める立川航空電鉄によるテスト走行の一環として、日本で初めてのモノレールの走行を体験していた。立川航空電鉄は電鉄とはいうもののただの鉄道ではなく、単軌鉄道つまりモノレールの運行を目的とした会社だった。


元々、余り発展していたとは言えなかった立川町だったが、近年では飛行場を擁する空の町として知られるようになっていた。そのきっかけとなったのが、帝国陸軍航空隊航空第五大隊が当時の立川村に立川飛行場を設置した事だった。やがて、民間の飛行家らも立川飛行場を利用するようになり、東京の空の玄関口として賑わいを見せるようになった。


しかし、ここで問題となったのが軍民共用空港であるという事であり、陸軍としては民間飛行家を排除し、完全な軍事基地とすることを望んでいたのだがそこに思わぬ敵が現れた。関西の財閥での1つである川西財閥と、その創業者である川西清兵衛だった。


早くから航空機に着目していた川西は大阪に日本航空株式会社を創設して水上機に航空輸送を行なっていたが次に目指していたのは陸上機による東京大阪間の空路開設だった。そのためには立川飛行場はどうしても必要な場所であり、川西は政界を通じて陸軍に対して、立川の軍事基地化を中止するように圧力をかけさせたが陸軍としても広大な面積を有する立川飛行場はアメリカ合衆国による空襲を阻止するための要であり、手放す事のできない土地であり川西と陸軍の対立は長きに続いたが、1931年10月に発覚した陸海軍及び警視隊内部の日蓮法華宗信者によるクーデター未遂事件である10月事件によって軍の信用が低下した事によってあっさりと終幕を迎えた。


この10月事件によって陸軍は粛軍におわれ立川飛行場どころでは無くなり、兼ねてより演習の際に出る土埃などの問題からその閉鎖を近隣住民から訴えられ続けていた代々木演習場の存続と引き換えに、飛行場開設以来の主であった航空第五大隊は所沢に移転し、従来、所沢にあった陸軍飛行学校は千葉県稲敷郡阿見村の海軍航空隊霞ケ浦飛行場へと移転させられた。後にこの事から陸海軍の航空に関する教育は陸海軍で統合され、航空関係者同士の交流が進む事になるが、それはまだ先の話だった。


一方、10月事件から時を遡ること6カ月ほど前の1931年の4月26日に日本中が落胆する出来事があった。1936年の第11回夏季オリンピック開催地投票において東京が、南京やアレクサンドリア、ローザンヌといった他の都市と同じようにスペイン王国のバルセロナに敗れたのだった。


国際オリンピック委員会委員の1人は東京の問題点として交通の便がほかの候補都市と比べて著しく不便である事などを述べた。かつての関東大震災からの復旧の際に政治的混乱から場当たり的な復旧に留めた事による弊害だった。


これが切っ掛けとなり捲土重来を合言葉に次の1940年オリンピックに向けて区画整理が行なわれた他、東京市電でもフランス共和国ミシュラン社によって開発された鉄道車両ミシュリーヌを参考にして、ゴムタイヤで線路上を走るため従来よりも騒音が抑えられた無音電車と呼ばれる車両の開発を行なうなど、各所で交通機関の整備も進んでいくことになる。立川飛行場を手に入れた川西がその動きに乗らないはずもなく、更なる拡張を行ない立川飛行場を本格的な国際飛行場とする計画を立てたのだが、そこで問題となったのが立川から東京府中心部への交通機関だった。


鉄道省の鉄道路線もあったが、オリンピックとなればさらに多くの人間を輸送する必要があり、そのため飛行場から直接、途中停車や乗り換え無しでいく事のできる交通機関が求められた。そこで創設されたのが立川航空電鉄だった。


当初はジャイロスコープによって車体を安定化させるジャイロ式モノレールによって、文字通り地上に一本だけレールを引いてその上を走るものを作ろうとしたが、これはジャイロ機構への無理解から建設許可が下りず断念した。


続いて検討されたのがレールプレーンと呼ばれるのもので、これはイギリスのジョージ-ベニーが開発した後部に取り付けられたプロペラで推進力を生みだし、高架軌道に沿って進むとされたものだったが、採用例が皆無である事が不安視されこちらも建設されなかった。


こうして、ジャイロ式でもレールプレーンでもない方式が求められたのだが、そこにはある問題点があった。通常のモノレールは懸垂式と跨座式に分けられるが、その双方でトップを走っていたのがドイツであるという事だった。


世界初の懸垂式モノレールであるヴッパータール空中鉄道は言うに及ばず、さらにリロイ-ストーン式やマイグス式などそれまで主にアメリカで多くの発明がなされていた跨座式の分野でも近年ドイツで革新的な発明がなされていた。それまで自動車運搬用鉄道車両などを発明していた技術者エルンスト-カール-ロッシャーがドイツ革命で傷付いたハンブルク市電に代わる新たな交通機関してロッシャー式と呼ばれるモノレールを開発し、これがハンブルク復興のシンボルとして採用され大々的に宣伝されたのだった。


ロッシャー式モノレールは友好国であったアメリカにも輸出され、自動車交通に対抗すべくミッチェル政権下で組織されていた電気鉄道経営者協議委員会、通称ERPCCはすぐさまこの技術に着目して全面的な採用を訴えた結果PCCカーとして知られるようになるのだが、ドイツそしてアメリカという日本からすれば敵国ともいえる両国で開発、採用された代物など使えるはずもなく、変わり種の方式ばかりが検討されていたにはそうしたわけがあったのだった。


しかし、その変わり種の方式が失敗した以上は正攻法に頼る他に道は無いと思われたが、解決策は意外なところから見つかった。意外なところとはロシア帝国だった。実はロシアではモノレールの開発が積極的に行なわれており、中でも電気自動車の開発で知られるトビリシ生まれの技術者であるイッポリト-ウラジミロヴィチ-ロマノフはすでに1902年に懸垂式モノレールの開発に成功していたのだった。これに目を付けた立川航空電鉄は早速ロマノフを招聘し、その監督の下で試験線の建設にまでこぎつけた。


結局、立川から東京府中心部への交通機関としては川西と関係のあった安田財閥系の東海道電気鉄道が飛行場の近辺に駅を作る事となり、立川航空電鉄はその意義を喪失してしまうのだが日本初のモノレールという偉業は日本の鉄道史にしっかりと刻み込まれたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 立川飛行場とモノレールの話、史実の羽田飛行場の類推ですよね。 この小説では航空技術がかなり進んでいる(7年くらい?)ことと、妄想に取りつかれたアホ軍部を粛清できたこと、経済の方も史実より…
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