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第237話 脱退とクーデター

1931年4月18日 オーストラリア連邦 西オーストラリア州 パース

「諸君、我々は今こそ忠良なるオーストラリア国民、いや、()()()()()国民として、陛下と祖国を裏切るキャンベラ政府に対してノーを突きつける時が来たのだ。諸君、我々がすべきことは何か」

「脱退だ」

「その通り、今こそ我らはキャンベラの不忠者どもの軛から逃れるべきなのだ」


西オーストラリアのオーストラリア連邦からの脱退をかねてより訴えてきたキース-ワトソンがそう言うと大きな拍手が沸き起こった。


元々、連邦成立当初から遠く離れたメルボルンからの支配には不満が強かったのがこの地域だった。オーラリアという名称も19世紀のゴールドラッシュの際にこの地域で産出した金のラテン語名であるアウルムの英語読みであるオ―ラムに由来するものであり、その当時から脱退を考える人間が多かったことを示している。


しかし、そうした運動は残念ながらゴールドラッシュの終焉と共に元の農業中心の経済に戻ってしまったことから主流となる事は無く、そのままオーストラリア連邦の一員として共に歩んでいくもの…だと思われた。


転機となったのはビッグブラザー運動という移住運動だった。

これはニュージーランド、パーマストン-ノースに生まれたビクトリア州議会議員であるリチャード-リントンの発案によるものでイギリス本土から若者をオーストラリアの農場に送り働かせ、その定住を目指すというものだった。1924年に始まったこの運動は広大な農地の割に人口の少ない西部などで特に積極的に受け入れられた。さらにビッグブラザー運動の宣伝活動には思わぬ副産物もあった。本来移住の対象ではない年齢のイギリス本国で何らかの職業を持っていた人々がオーストラリアに興味を持ち移住を願い出る例が徐々にではあるが増えてきたのだ。だが、東部地域の受け止め方は違っていた。東部地域で強い勢力を持つ労働党が大土地所有と大企業への反対からイギリス本国からの自立を目指していた事から、その流れに逆行するようなビッグブラザー運動に強い拒否反応を示したのだった。


しかし、西オーストラリアの人々からすれば将来有望な働き手と手に職を持った人々が同時に移民として来てくれているのにそれを拒否する理由は無く、東部に対する反発が強まった。移民反対の主張をしている労働党が社会主義政党であったことからドイツのスパイと呼んで労働党を批難し、時には直接的な衝突まで起きた。


そうした混乱の中で勢力を伸ばしたのがワトソン率いる離脱派だった。ワトソンらはイギリス本国に対しオーストラリア連邦からの離脱の承認を求める嘆願書を送ったが、承認は保留された。ホレイショ-キッチナーの退任後に跡を継いだロバート-セシル内閣にはまだほかに対処すべき事態があったからだった。


一方、ワトソンによる書簡がイギリス本国に届けられたという知らせはまだ承認されたいないにもかかわらず東部、特に労働党には衝撃を与え一部には、

『西オーストラリアが連邦から離脱するならばオーストラリアはイギリスから独立する』


と言い出す人間まで現れ、オーストラリアをめぐる情勢は混沌としていく事となる。


1931年9月5日 朝鮮王国 漢城

朝鮮王国は隣国である大日本帝国と大清帝国をはじめとする各国から国際的に認められた永世中立国であり、そうであるが故に対した混乱も無くよく言えば安定した統治のまま、悪く言えば停滞したままに20世紀を迎えていた。


そんな朝鮮王国の首都漢城ではこの日、国王である英宗が臣下を集めていた。


「皆々、良く集まった。余はこれより新たなる国家構想を発表しようと思う。まず、華城への遷都、次に日蓮法華宗への帰依、それに軍並びに官吏の近代化を徹底することとする」


英宗の言葉に動揺が広がった。何しろ首都である漢城を捨てるばかりか、その上、従来の儒教重視政策を捨てての仏教への帰依、それも隣国とはいえ朝鮮に根深く残る小中華思想からすれば格下である日本仏教の宗派である日蓮法華宗への帰依などは認められぬことだったからだ。


「乱心、陛下がご乱心あそばされたぞ、誰かおらぬか」


臣下の一人が叫び扉が荒々しく開かれたが、入ってきたのは朝鮮王国軍の中でも唯一近代的な装備を持つ侍衛隊の兵士たちだった。


「なにか意見のある者はいるか」


英宗の言葉に臣下はうなだれるしかなかった。この後英宗の言葉通りに改革は実行されるが、それに反対するものは多く、その多くが侍衛隊によって粛清される事になる。


「太炎先生、まずは一歩目です」


宣言を終えた英宗はとある墓に赴いていた。そこに眠っていたのは章炳麟、号を太炎、という清国出身の革命家だった。


並みいる革命家の中でも知識の面では抜きんでた人物であった章は清国における革命活動が失敗に終わると日本に亡命していたが、清国との提携が叫ばれるようになると日本を脱して朝鮮に落ち着いていあたのだった。その抜きんでた知識を高く評価された章は英宗に度々講義を行なっていたが、その事に不満を覚えた一派によって暗殺されてしまった。


それを機に朝鮮の旧弊を改めんと決意した英宗は章の理想とした仏教国家として朝鮮を作り変える為に密かに動いていた。そして目を付けたのが隣国日本の日蓮法華宗系団体だった。


当時の日蓮法華宗系の団体は海外でも布教活動を行なっており、多くは現地の日本人コミュニティを中心に広がりを見せていた。朝鮮国内ではこれに警戒感をあらわにする者もいたが英宗は寧ろそれを利用しようと考えた。


日蓮法華宗の側にも天皇の帰依を目指す国立戒壇構想を考えれば、朝鮮国王の帰依はその一歩となると考えて賛同するという人間は多く、武器弾薬や資金の援助、信徒の動員準備などを積極的に行なった。


そして、すべての準備が整えた英宗はこの日事実上のクーデターに及んだのだった。


こうして朝鮮王国は東アジア唯一の日蓮法華宗を国教とする国家へと転換を遂げたのだが、その影響は大きかった。


清国では英宗の師が革命派の中でも過激派に属した章炳麟であったことから、朝鮮並び国内の革命派残党に対して強く警戒するようになり、その監視に一層の注意が払われる事になる。


最も大きな影響を受けたのは日本であり10月には陸海軍と警視隊内部の日蓮法華宗信者による英宗の事実上のクーデターに刺激を受けたクーデター計画が実行寸前で露見する10月事件が起きた。


この10月事件は昭和天皇に大きな衝撃を与え、ベルギー王国への留学の経験から義父と仰ぐベルギー国王アルベール1世がルクセンブルクでの革命後に国内の動揺を抑える為に自らが調停役となって挙国一致政府を組織したことを範として、政友会と進歩党の両党に加えて茅原崋山率いる新民本主義運動を加えた国策審議の為の諮問機関である内閣審議会を設置するように働きかけた。


政府与党である政友会からは不満の声も上がったが、政友会の長老になっていた原敬は、


『あくまで諮問機関であり、むしろ新民本主義運動に首輪をつける事ができる』


といって参加するように促したため、結局、内閣審議会に加わる事にした。


原の読み通り新民本主義運動は内閣審議会という枠組みの中で縛られ、その柱の一つである国民配当については審議会の目的とは無関係なものである、と議論さえもする事が出来なかった。これに不満を持った新民本主義運動で活動していた哲学者である土田杏村は抗議の意を込めて辞任したほどだった。新民本主義運動はその後しばらく雌伏の時を過ごすようになる。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] オーストラリアでは英連邦脱退が進められ、朝鮮王国では法華宗の国家改造によるクーデター事件とは、世界情勢、混沌せり。 [一言] 日本と清の足元で生じた朝鮮のクーデターは、何を意味するか。…
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