第234話 二つの民族と歓喜の木曜日
1929年4月19日 英領インド帝国 マドラス管区 マドラス 中央駅
マドラス管区は正式名称をセントジョージ要塞管区といい、英領インド帝国以前にイギリス東インド会社によって設立されたベンガル管区(ウィリアム要塞管区)、ボンベイ管区と共に英領インド帝国で最も古い行政区域の1つであり、その中心都市であるマドラスはドラヴィダ系民族であるタミル人文化の中心としても知られていた。
タミル人をはじめとするドラヴィダ系諸民族はアーリア人南下以前にインド亜大陸に居住していた民族の末裔とも言われ、アーリア人たちが作り上げたヴァルナ-ジャーティー制、所謂カースト制の中では最下層のシュードラやカーストの外の存在、不可触民とされた。
しかし、近年はそうした状況に変化が出ていた。
メキシコ風邪の感染拡大に有効打を打つ事ができなかったことからインド国民会議が反英的な姿勢を強めた事やザカスピ-ブルガール保護領の誕生以降、親英的であったはずのインド-ムスリム連盟をロシア帝国の尖兵として警戒するものが増えていた事により、かつてのムガル帝国以前から続くヒンドゥー対ムスリムという対立構造を利用する事は難しくなりつつあると考えられ、分割して統治せよという基本原則を忠実に行なう為には今までの北インド中心の政策ではなく他の地域にも目を向ける必要があるとされ、そこでタミル人などのドラヴィダ系諸民族に注目が集まっていた為だった。
そして、エロード-ヴェンカタッパ-ラーマサーミ率いる自尊運動がイギリスの支援を受けて設立されると、ラーマサーミは困窮する農村部の救済や女性の権利を訴える運動を積極的に行なう一方でヴァルナ-ジャーティー制、さらにはヒンドゥー教そのものを激しく攻撃した。
こうした自尊運動の活動に対して、インド国民会議では対策が協議されたが、全面対決を望む過激な意見から話し合いを出の解決を目指す穏健派まで様々な意見が入り乱れ、中にはヴァルナ-ジャーティー制自体を否定するべきという意見も見られたが、流石にそこまで踏み込んだ案が通るまでも無く、結局中心人物の一人であったモーハンダース-カラムチャンド-ガーンディーのうちだした不可触民を神の子供と改称する事などが決められたに過ぎなかった。しかしラーマサーミはこれを、
『名を変えた差別の温存にすぎず、ヒンドゥー教徒による偽善である』
として非難し、またインド国民会議内部でもヒンドゥー教徒保守派を中心に、
『ドラヴィダ人に対して譲歩し過ぎている』
という不満の声があがることになりガーンディーは板挟みとなって苦しい立場に置かれたがそれでも、自らの目指す『1つのインド』に向けてその活動を止める事は無かった。そしてこの日もラーマサーミと会うためにマドラスを訪れていた。
南インドでもガーンディーは有名人であり、駅にいた人々は次々と道を開けていった。道を開けようとする人間と何が起きているかよくわからない人間が入り混じり駅の構内に混乱が広がり始めていたころ、銃声が響き渡った。驚いた人々がガーンディーの方に目を向けると彼の身に着けていた白いドウティが赤く染まっていくのを目にした。
ガーンディーを殺害したとされた男は、その後すぐに姿を消したため詳しい事はわからなかったが、このガーンディー暗殺事件をきっかけにヒンドゥー教徒過激派と自尊運動支持者との間での衝突が始まり、最終的にただドラヴィダ人というだけで、あるいはただヒンドゥー教徒というだけで攻撃が相次ぐようになり、英領インド軍が治安維持のために出動する事態となった。
この暗殺事件後の悲劇的な暴動を見たラーマサーミは、
『インド亜大陸にはドラヴィダ人とそれ以外という二つの民族が存在しており、それらは分けられなくてはならない』
という二民族論を唱えるようになり、自尊運動もドラヴィダ人による国家『ドラヴィダ-ナードゥ』を目指す運動へと形を変えていく事になる。
1929年10月24日 極東社会主義共和国 サハ=ヤクーチア自治共和国
「やった遂に掘り当てたんだ。これで、こんな土地ともおさらばだ」
「ああ、ついにやったな」
極東社会主義共和国のサハ=ヤクーチア自治共和国の首都ヤクーツクより西に820キロほど行った荒野で喜びの声を上げる2人のアメリカ人がいた。
1人はニューヨーク出身でイギリスに渡り、北ローデシアやベルギー領コンゴの銅の採掘で名をあげた事から銅山王と呼ばれたアルフレッド-チェスター-ビーティー、もう一人はビーティーよりも1歳年上だがビーティーの友人であるスタンフォード大学卒の鉱山技師ハーバート-クラーク-フーヴァーだった。
2人がシベリアの荒野にいるのにはわけがあった。
元々、ロンドンに拠点を置くビーティーの会社であるセレクション-トラストは北ローデシアとベルギー領コンゴの他にも英領シエラレオネやゴールドコーストを拠点に鉱山を開発する事で利益を得ていたのだが、次第に新しい事業にも興味を示し始めていた。それが金やダイアモンドといった貴金属だった。
なかでも、ビーティーが目を付けていたのがシベリアに眠る地下資源だった。
そして、自動車王ヘンリー-フォードの平和の船を切っ掛けに極東社会主義共和国への投資が安全であることを知ったビーティーは早速、極東政府と交渉をしたのだが、当時のキッチナー政権は極東社会主義共和国を黙認はしても決して好意的には見ていないという事を忘れていたのだった。1企業の利益の為に社会主義者の体制を強化するような事をフォードの動きでさえ苦々しく思っていたキッチナー政権が容認する筈が無かった。
そして、イギリス政府の不興を買ったビーティーに対して同業他社は絶好の機会とばかりにありとあらゆる妨害工作を行ない、気が付いた時にはイギリス植民地からたたき出されていた。
ビーティーは一時はイギリスに帰化する事まで検討していたためこのような仕打ちは流石に堪えるものがあり、仕方なくアメリカ合衆国に帰った。そんな絶望の淵に叩き落されたビーティーに声をかけたのがフーヴァーだった。フーヴァーはまだ、セレクショントラストが小さな企業だったころに間借りしていたビルの同じ階にコンサルタント会社を構えていた事があり、2人は友人だった。人情に篤いフーヴァーはビーティーのもとに駆け付けてその再起を促した。
そして、ビーティーとフーヴァーは残された最後の利権であるベルギー領コンゴの鉱山を売却し、シベリアン-セレクション-トラストを設立して極東社会主義共和国での資源探査を行なった。それは文字通り最後の賭けだったが、この日2人は賭けに勝った。2人が掘り当てたのは間違いなく史上最大級のダイアモンド鉱山だった。
この情報がアメリカにもたらされると、シベリアン-セレクション-トラストの株価は高値を更新し続け、翌週の10月29日には遂にニューヨーク証券取引所開設以来の最高値を更新することになった。落ちぶれていたビーティーが資源開発で再起を果たすという、この劇的な出来事はシベリアンドリームという言葉がアメリカ人の間で囁かれるきっかけとなったのだった。
フーヴァーとビーティーが一時期同じビルの階にオフィスを構えていたのは史実ですが、親しい友人であるというのは創作です。




