第225話 プエルトジョーンズの行列
1925年6月30日 パタゴニア執政府 プエルトジョーンズ 国立造幣局
下位春吉はいつまでも終わりが見えない行列にうんざりしながらも並び続けていた。
「はぁ、いつになったら消印を押してもらえるんだ…」
もう何年も帰っていない故郷の言葉である日本語で呟いてみたものの、そのつぶやきは同じように自分の番が来るのを待っている多くの人々の談笑、あるいは不満の声の中に掻き消されていった。
何故、下位がこの様な行列の中で待っているかと言えば、彼の持っている紙幣に消印を押してもらう為だった。紙幣に消印を押すというのは奇妙なことのようだが、パタゴニア執政府では普通だった。いや、普通の事になってしまっていたのだった。
発端は、シルビオ-ゲゼルというドイツ系移民が自由経済という構想を思いついた事から始まった。自由経済と言っても有名なスコットランド生まれの哲学者であり経済学者であるアダム-スミスの国富論、及びその思想的影響下に属するものとは違い、この自由経済はゲゼルの独自の考えに基づいたものだった。
自由経済の柱は3つあり、1つは自由土地、つまりすべての土地の国有化とその貸与という形での分配、次に自由貨幣国有金融機関によってその価値が保障された、とある画期的な特徴を持つ貨幣の発行、最後の自由貿易に関しては、国際貿易を通じて協調と豊かさを実現しようとする、良くある主張であり前者2つに比べるとややインパクトに欠けるものだった。
1つ目の自由土地にしてもアメリカの思想家、経済学者であるヘンリー-ジョージの主張の焼き直しともいえなくも無く、結局、目新しいものと言えば自由貨幣とその特徴だけだといえた。
自由貨幣の特徴、それは使用の度にその価値が減る、という減価する貨幣であることだった。ゲゼルはこれによって通貨の死蔵を抑える事が出来ると主張した。これに着目したのがパタゴニア執政府の国家元首的存在である司令官兼外務大臣ガブリエーレ-ダヌンツィオだった。
戦中は各部隊が発行した軍票で物資の調達を行ない、内戦終結後には正式な通貨としてアウストラルを発行したが、流石に各部隊単位で乱発された軍票の交換を全て行う事は出来ず、頻繁な通貨切り下げを余儀なくされていた。当然このような状況ではアウストラルの信用は下がる一方だったため、国民はチリ-ペソやブラジル-レアル、さらにいえば発行国であるアメリカ合衆国がパタゴニアに対して敵対的な態度であるにも拘らず流通し続けているアメリカ-ドルや世界的な基軸通貨であるイギリス-ポンドを信頼するようになっていった。
ダヌンツィオはこうした状況を打破すべく、一定以上の外国通貨の回収と世界初の自由貨幣、新アウストラルへの強制交換を実施を命じた。
こうして新貨幣の発行と共にパタゴニア経済は(強制的に)回り始めた。こうしてすべてが上手くいく…という事は無かった。
ゲゼルの考え出したシステムが現実に適応するには難があり過ぎたのが原因だった。
当初は支払いの度に紙幣に直接押印する事でその紙幣がどれだけ減価したかを示すとしていたが。押印する店舗などからは煩雑過ぎると反対の声が上がり、また、押印される顧客の側もその減価が本当に妥当なものであるかを疑問視し中々納得しようとはしなかった。
そこで公的機関である国立造幣局で月ごとに減価することとし、その証明として消印を押した証書を渡すことにしたのだが、結果、国立造幣局では毎月このような行列ができる始末だった。
ゲゼルはいずれは消印制度を廃止してパンチカードと大型機械式計算機によって国民一人一人の保有貨幣の管理とその価値の正確な計算が出来るようになると豪語していたが、そもそもパンチカードシステムや大型機械式計算機自体パタゴニアにはなく、購入しようにも外貨不足やアルゼンチン共和国とのにらみ合いが続いているため余力がなく、現状では不可能だった。
「どけ、インディオ野郎」
下位がもの思いにふけっていると、いきなり突き飛ばされ行列からはじき出されてしまった。
「痛いですね。随分と急いでいるようですが何か理由でも?」
「理由だと?"文明人"より先に"野蛮人"が入っていいわけがないだろうが」
自分を突き飛ばした男に下位はあくまでも丁寧な口調を崩さずにそう言った。それに対して男は笑いながら答えた。
パタゴニアにはマプーチェ族という原住民たちが、スペイン植民地以前より暮していたがアルゼンチン及びチリ両国は彼らを居住地から容赦なく追い立て弾圧していった。
パタゴニア独立後のマプーチェ族の扱いはかつてのブラジル帝国時代のロマン主義時代を彷彿させるものだった。つまり、過去のマプーチェ族たちをアルゼンチンに対して抵抗した英雄として称賛するプロパガンダを多数作成する一方で、現実のマプーチェ族たちに対してはアルゼンチン時代と同様かそれ以上に迫害する事を黙認するという矛盾したものだった。そのため、野蛮人という偏見を持つ者も少なくなかった。
「なにやってるんだ、やめろ」
「おいおい野蛮人にそんなに同情しなくてもいいんだぜ、リヒャルト」
「違う。お前は…新聞も…読まないのか」
「はぁ、何言って…まさか…あ…あ…」
リヒャルトと呼ばれた男が下位の方に時折見ながらたどたどしく下位を突き飛ばした男に聞いた。突き飛ばした男は初めは本当に訳が分からないといった感じだったが、やがて顔面蒼白になった。
「許してください。こいつは確かに馬鹿ですが、決して、その、あなたに対する敵意を持ってしたものではなく」
「おい、お前たち何をしている…あなたは司令官の片腕のシモイ氏ではないですか、貴様ら、この方を誰だとおもっている」
混乱状態の男に代わりリヒャルトが謝罪の言葉を口にしていると、警備中の警官たちがやって来た。尤もそれは何か事件があったから来たというよりは、地面に転がされる哀れな原住民を見物していたら何か様子がおかしい事に気づいたから来た、という感じだった。
下位はパタゴニアで特に公職に就く事も無かったが、ダヌンツィオと共にバルカン戦争を戦ったという経歴と物珍しい東洋人という事から、東洋の神秘的な武術の使い手やら怪しげな呪術を使うダヌンツィオの切り札やら噂に勝手に尾ひれがつき、すっかりダヌンツィオの片腕として扱われるようになってしまった。
「ああ、いや、いいんだ」
「しかし…ああ、でしたらすぐに手配するように造幣局の方に連絡して」
「いいんだよ。本当に」
下位は特に気にしていないと言った様子で、警官たちにそう言って列に戻った。
それをリヒャルトことリヒャルト-ヴァルター-オスカール-ダレはただ見守ることしかできなかった。
(流石になんどもあると堪えるなぁ、やっぱ日本に帰ろうかな)
下位が原住民扱いされたのはこれが初めてではなかった。下位は心の中でそう思ったが、取りあえずは自分の順番が来るまでもう何事もないように、と祈るしかなかった。




