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第214話 侵攻開始

1923年5月2日 エチオピア帝国 ドーロ

エチオピア帝国はアフリカの中でも独立を守り続けてきた唯一の国家と言っても良かった。他の例としてはリベリア共和国もあるが、リベリアは建国以来アメリカの実質的な植民地であるのに対しエチオピアはイタリア王国との戦争に勝利してその独立を維持する事に成功していたのだった。しかし、その独立が脅かされる時が再び訪れようとしていた。


イタリア領ソマリランド並びにイタリア領エリトリアから、イタリア王国軍が越境して来ていたのだった。兵士の多くはイタリア軍には似つかわしくない赤いフェズ帽をかぶっており、これは彼らがアスカリと呼ばれる現地で徴収された兵士であることを示していた。


「全くこんな連中役に立つのかね」

「まぁまぁ、戦意は高いですから…それにイタリア人の犠牲が減るのは良い事では?」

「だがなぁ、大尉…アブルッツィ公は入れ込み過ぎじゃないのか?見ろ連中の持っている銃を、俺たちと変わらないじゃないか、くそ、こっちはバルカンの時にはヴィッテルリ銃まで引っ張り出してたってのに…」

「それはわからなくもないですが、我々にはこの通り自動小銃も与えられているわけですし、アブルッツィ公の考えはさておき決して軽んじられているという訳ではないと思いますよ」


ロドルフォ-グラツィァーニ大佐に対しアルバニアでの反乱鎮圧作戦以来の腐れ縁であるジョヴァンニ-メッセ大尉はそう言った。


アブルッツィ公とは一代のみのサボヤ朝スペイン王アマデオ1世の3男ルイージ-アメーデオ-ディ-サヴォイア=アオスタの事だった。アブルッツィ公はK2への登山や北極への探検航海で高名な王族だったが、最近ではイタリア領ソマリランドの開拓を熱心に行なっており、アブルッツィ村という自らの名を冠する集落まで建設したほどだった。アブルッツィ公が特異だったのは単にイタリア人を入植させるのみならず、現地の住民であるソマリ人とも積極的に関わりを持とうとした事だった。それを象徴するようにアブルッツィ村には病院、学校、駅といった近代的施設にまじって壮麗なモスクが建てられていた。


この風変わりな支配者を最初は警戒していたソマリ人たちもだんだんと心を開き、今回のエチオピア侵攻に先立ってアスカリを募兵した際には多くのソマリ人たちが志願を申し出ていた。これはアブルッツィ公をソマリ人たちがどれだけ信用していたかということの証でもあったが、それ以上エチオピアでは自分たちと同じソマリ人が弾圧されているというのもあった。総督府はそうしたアスカリを歓迎した…という訳ではなく、困惑した。なにしろ、植民地において武器に精通した人間を増やすという事は、それだけ叛乱の恐れが増えるからだったが、アブルッツィ公は王族としての地位を利用して各方面に対して説得を行ない、最終的に本国からの命令という形でアスカリの従軍を認める事になった。


こうして従軍しているアスカリ達はイタリア軍の主力小銃であるカルカノ小銃を持っていたが、グラツァーニ達が持っていたのはもっと新しい小銃だった。ベレッタ=フェデロフ自動小銃と呼ばれている自動小銃であり、イタリア軍初の自動小銃だった。


元々、フェデロフ自動小銃はロシア帝国のウラジーミル-グリゴリーヴィッチ-フョードロフ技師が開発していた自動小銃だったが、試験においてフョードル-ヴァシリエヴィッチ-トカレフ技師の既存のモシン-ナガン小銃の半自動化案に敗れて、歴史の表舞台から姿を消した代物だった。


しかし、そんなフェデロフ自動小銃はロシアからイタリアへの37㎜塹壕砲の輸出から始まった軍事協力によって試作品がイタリアに送られたことから復活する事になった。


そもそも、ロシア帝国においてフェデロフ自動小銃が採用されなかったのは、新開発の6.5mm弾を採用するようにとフョードロフ技師が強硬に主張し、そのような余裕がなかったロシア軍が拒否した為だったが、イタリアにおいては6.5mm弾はカルカノ弾という形で既に存在していた為、設計をカルカノ弾向けに変更し、従来の騎兵銃と同様のスパイク式銃剣を装備する代わりに反動制御用の柄をはずすなどの改良を加えたものがベレッタ社によって生産される事となり、ベレッタ=フェデロフ自動小銃と呼ばれていた。


本来ならば騎兵銃に分類されてもおかしくないベレッタ=フェデロフ自動小銃だったが主な配備先はベルサリエリ部隊などの歩兵部隊や、戦車や航空機搭乗員などを想定した為、従来通りの小銃として分類されていた。


「しかしな、やはり、あんな連中と共に戦うというのはなぁ…」

「サン-ニカンドロの"改宗ユダヤ人"と一緒に戦っているエリトリア方面の部隊と比べればましでは?」

「それを言うのかね…いやまぁ確かにましではあるが…」


メッセの言葉に対しグラツィァーニはいやそうな顔をした後、何も言わなくなった。


サン-ニカンドロの"改宗ユダヤ人"とは、イタリア南部プーリア地方サン-ニカンドロ-ガルガーニコにあるユダヤ人コミュニティで、キリスト教に改宗したユダヤ人…というわけではなくむしろその逆のキリスト教からユダヤ教へと集団改宗した元キリスト教徒達の事だった。


それといって特徴があるわけでもないサン-ニカンドロにユダヤ教徒によるコミュニティが形成される事になったのは、1885年にサン-ニカンドロに生まれたドナト-マンドゥツィオがバルカン戦争に従軍中に負傷し、野戦病院で聖書を熱心に読み始めた事から始まった。やがて、マンドゥツィオは自らをアブラハムと同様に神から啓示を受けたと主張するようになり、故郷に帰り民間療法を行なう傍らユダヤ教への改宗をすすめて回るようになった。それは本来のユダヤ教とは違うカルト教団のような物だったが、マンドゥツィオには関係なかった。


その熱心な姿勢に対し、感銘を受けたのがリエージュ会議によってもともと住んでいた土地を追われイタリア南部へと当時のイタリア政府によって押し込められるように移住させられていた、いわゆる未回収のイタリアの出身者たちだった。絶望の只中にあった彼らはマンドゥツィオに希望を見出し、次々と改宗したのだった。

それから5年後にはイタリアは未回収のイタリアよりも広大な地域を制圧する事に成功したのだが、5年という時間は改宗者たちがコミュニティを確固としたものにするには十分すぎる時間であり、現在のイタリア政府も"ユダヤ人"の対応に苦慮していたのだった。


パレスチナに送ればいいという意見もあったが、ユダヤ人過激派による反乱がようやく鎮圧されたばかりの土地に新たに"ユダヤ人"を送り付けるというのは問題があるとされた。そこで目を付けられたのがエチオピアだった。もともとエチオピアにはベタ-イスラエルといわれる起源不明のユダヤ教徒が暮らしており、ベタ-イスラエルと共にサン-ニカンドロの"改宗ユダヤ人"も同じ土地に押し込めようと考えていたのだった。


もちろんこうした思惑は伏せたままイタリア政府はマンドゥツィオに接触、マンドゥツィオ本人も従軍してエリトリア入りしていたのだった。


宿敵であるオーストリア=ハンガリー帝国を打倒し、現代のローマ帝国と自称する事も多くなったイタリアだったが、その軍隊はまさにかつてのローマ軍の様に多彩だった。

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