第211話 広告塔と反発
1922年10月9日 スウェーデン王国 ストックホルム ユールゴーデン リラ-スクガン
その日ストックホルムにある18世紀に建てられた離宮であるリラ-スクガンではパーティーが行なわれていた。そしてそのパーティーに突然、現れた男はそれまで会場にいた誰よりも注目を集めていた。
「男爵、お越しいただき光栄です」
「いやいや、礼を言うのはこちらですよ。これほどのパーティーにお招きいただけるとは…昔を思い出しますな」
パーティーの主催者でリラ-スクガンの現在の所有者でもある、スウェーデン経済界の大物であるイーヴァル-クルーガーは目の前の人物に対して敬意を込めてそう言った。それに対して男爵とよばれたウィーン-ロートシルト家当主ルイ-ナタニエル-フライヘル-フォン-ロートシルトは礼を述べてから、もはや二度と戻る事は無いであろう、かつての栄光に思いを馳せた。
なぜロートシルトがこの場にいるかといえば、ハンガリーから始まった社会主義革命によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊が原因だった。
崩壊によって社会主義者が権力を握ると、ヨーロッパにおける国際的金融資本の代表格だったロートシルト家もまたその地位を追われる事になり、ヨーロッパ各地をさすらう事になった。オーストリア=ハンガリーやドイツ帝国の支配下にあったロートシルト家の資産は帝国軍に志願し、捕虜となった弟オイゲンの解放と引き換えに多くを革命勢力に引き渡していた為、その旅は苦難の連続だった。当初はパリやロンドンにいる一族に助けてもらう事も考えたが、そこで障害になったのが反ユダヤ主義だった。
元々中世の頃よりヨーロッパには反ユダヤ主義があったが、それが第一次世界大戦の惨禍によって勢いを増し、そして皮肉にもドイツとオーストリア=ハンガリーを崩壊させた社会主義革命の参加者の中にユダヤ人が少なからずいた事から、あちこちで反ユダヤ主義団体が乱立する有様であり、良くも悪くも目立ちすぎるロートシルトの入国は危険だと思われた。
代わって、ロートシルトが目指したのがスウェーデン王国だった。スカンジナビアの各国中でも、スウェーデンには多くのドイツからの亡命者が暮らしており、ここならばロートシルトも受け入れてもらえるのではないかと期待を持っての事だった。
ロートシルトの入国はスウェーデンでも大きな議論を呼んだがそんな中で接触してきたのがクルーガーだった。
元々は鉄筋コンクリートを扱う技師でありストックホルム市庁舎やストックホルムオリンピック競技場などの建設で知られていたが、近年ではマッチの原材料調達や製造から販売までを一貫して手掛け、ヨーロッパ各国から南米のエクアドルにまで進出し、各国でマッチ市場をほぼ独占していた事から、マッチの王と称されていた。
クルーガーがロートシルトに接触してきたのにはある理由があった。
それは、世界的な著名人であるロートシルトと親しくする事によって、顧客たちの信用を得る為の宣伝材料としようとしていたのだった。実はクルーガーは事業成功で得た資金から多額の投資と企業買収を行なっていたのだが、それには裏があり、クルーガーは出資を募って買収すると、その買収した企業から資金を奪って配当金として出資者に渡すという、自転車操業的な詐欺に近い手法で投資と配当を繰り返していたのだった。
こうした手法の危うさはクルーガー自身が一番よく分かっていた為、何とかして出資者に対して安全安心を演出する必要があった。ロートシルトはその広告塔とされたのだった。ロートシルトもクルーガーを怪しんではいたが、クロアチアで未だ踏みとどまっている幼帝のため、そして何より自分自身の為に資金が必要であったことからその役割を引き受ける事にしていたのだった。
1922年11月1日 南アフリカ連邦 トランスヴァール州 プレトリア ユニオンビル
「アフリカーナ―の裏切り者スマッツを許すな」
「今すぐ連邦案を取り下げろ」
「我々に必要なのはイギリスの飼い犬になって得られる広大な庭ではなく、つつましくとも自由な自らの土地だ」
南アフリカ連邦の主要都市の内、行政を司る都市プレトリアにある、建築当初南半球最大の建築物だったユニオンビル前では人々が声を上げていた。
人々はみなアフリカーナー、所謂ボーア人だった。
何故声をあげているかといえば、先月に可決された南ローデシアの自治法案が原因だった。元々南アフリカの北に位置する南ローデシアではイギリス系の白人移民が多く住んでいた事から、自治かそれとも南アフリカへの編入かを決める投票が行われたのだが、これに対して南アフリカへの南ローデシア編入を求めていたヤン-スマッツは南アフリカへの編入を支持するように住民に対して圧力をかけたがこれは見事に失敗に終わっていた。
しかし、これは喜望峰からケニアに至る地域にまで南アフリカの旗を掲げる事により、大英帝国の中での南アフリカの地位を各個たるものとしてそれによって、大英帝国に属したまま、かつての2度にわたるボーア戦争の敗者であるアフリカーナーの地位向上を目指すスマッツにとって初めの一歩目で躓いたようなものであり、依然としてスマッツはローデシアの編入を求め続けていた。
そして、イギリス本国としてもこれを無視できない事情があった。
シャルロッテ=アマーリエ会議でイギリス領とする事で合意された旧ポルトガル及び旧ドイツの植民地をめぐる問題だった。これらの植民地においては概ねかつての支配構造が維持されており、その理由としては新たに直接統治するにはあまりにも負担が大きすぎ、イギリス本国としてイギリス企業の安全な活動とアフリカ縦断鉄道の安全な運航が守られればそれでよかったのだが、問題は残されたかつての支配構造の側にあった。
本国から遠く離れているうちに革命が起きて祖国に帰れなくなってしまったものたちの間ではモラルが崩壊しており、あからさまにやる気のないものや逆に住民に対して過度な対応をして騒乱を起こすなど、とにかく問題が多かった。例外はかつての先住民への虐殺によって比較的白人人口が多かった亡命ドイツ帝国領南西アフリカぐらいだった。
このままではイギリスの世界戦略にすら影響を及ぼしかねないと危惧したイギリス政府はスマッツの野心を承知であえてその提案を飲む事にした。といっても民意で決まった自治を覆す事も出来ないので、有望な炭田と避暑地となる高原地帯がある西部のテテ州を除くモザンビークとドイツ統治時代から自治を認められていた東アフリカ植民地のルワンダ、ブルンジの2王国とブゴバ地域そして自治こそ認められていなかったがその権威を認められていたキリンディ王朝のウサンバラ地域が新たに自治を認められ個別にイギリスの保護国となった以外はすべて南アフリカへの編入が決まった。
こうしてスマッツの野望は成就したかに見えたがそれに納得しない者たちがいた。
ジェームズ-ヘルツォーク率いる国民党とその支持者たちだった。
彼らは新たな領土が増える事によってより多くの黒人を抱え込むことや、新領土獲得と引き換えにイギリスにこれまで以上の従属を強いられるのではないかとの懸念を表明し、スマッツを売国奴と罵った。
こうした批判を受けたスマッツは新領土に対して、白人の移民を積極的に受け入れる事や有色人種移民の制限、また、各州を連邦政府の従属下に置いた1909年南アフリカ法を改正し、教育などの分野では各州の独自性を認める事によってアフリカーナー文化の防衛を図り、一方治安維持等に関してはこれまでどおり連邦政府による強力な権限を維持するという両頭制に基づいた新統治法の策定によって解決しようとしたが、この草案は第一次ボーア戦争時のケープ植民地総督だったアルフレッド-ミルナ―の腹心であったライオネル-ジョージ-カーティスの提言にしたがって作成されたものだったため、ヘルツォークら国民党からは一層強い反発を招く事になるのだった。
本話の投稿に伴い第121話の内容を若干修正しました。




